じゃあ、北宋

また、マニアな中国史のリクエスト依頼を受けて記事を書きます。北宋、西暦千年前後に起こった国です。世界史、日本史に対して大きな影響力を持っていたわけでもなく、中国史が好きな人でもなければ興味もないでしょう。だからこそ、私が書くことになったわけです。

成立

五代十国時代、という名前からして複雑に入り組んでそうな戦乱の時代が終わると宋(北宋)が台頭します。この創始者が趙匡胤という人で禅譲と言う名の簒奪を持って国を興しています。その当時、有力軍人が衰えた主家から国を奪うのは当たり前に成っていました。

政権を奪われた側の後周も簒奪によって成立した国です。後世の歴史家がそれぞれの立場で色んな理屈を述べるだけで、人間の歴史は弱肉強食の奪い奪われでしかなく、堯舜のように神話時代にしか武力でなく、徳を持って国を治めたことはありません。

そして、軍人が力を持つのは遠征の成功によって中央から離れた軍事力、名声を手にすることです。これも幾度となく繰り返された歴史です。軍人は中央にいるとき、政権近くに配置される官僚の影に隠れるのですが、地方に出て外敵に対峙すれば主役になるからです。

征夷大将軍、という日本の最高権力者が名乗った称号も、元々は東征に行く際の軍事トップに与えられたものです。政権が軍事行動に移す時、最高権力者本人が出馬しないのなら、誰かに最高権限を与えるしかありません。その最高権限は返す刀で自分に向かってくる可能性のある極めて危険な権限でもあるのです。

生殺与奪の権、とは言いますが、命を懸けて外敵と戦う軍隊で緩い人間関係は許されません。階級、年次によって権限がはっきり決まっており、上下関係に比較的頓着しないアメリカ人でも軍隊はガチガチの上下関係で構成されるように、軍のトップは神のような権限を持つわけです。

政治

趙匡胤と言う人は軍人が力を持つから国が乱れるのだ、と考えて軍人権力低下を模索します。まずは節度使、と呼ばれた地方官の力を削いで、単なる名誉職にすることで中央の統制が利かなくなることを抑制します。中央集権を即し、地方分権を認めないことで分断しないようにしたわけです。

司法も発達して警察・検察・裁判に分かれる現代型になっています。判決に対して不服の場合は上告も出来たようなので、この時代、西暦千年前後の司法制度としては世界トップであったでしょう。そして、中国に元々あったものの、大々的には行われていなかった科挙の充実を図り、科挙によって採用した官僚を軍人の上につけることで権限の更なる低下を図ります。

文民統治ということでしょう。軍とは究極には暴力であり、国を守る為に不可欠ですが、その暴力がクーデターと言う形に発展しかねないからです。日本では藤原道長が政権を取った頃にここまでの先進的システムがあったとはすごい物です。

日本だと豊臣秀吉に近いのかな?と思います。自らの出身階層、農民から力を削ぐ為に刀狩をしたり、徐々に子飼いの文官を重用して自分の周りを固めながら、戦国の匂いを残す大名と距離を置いたのは似ています。

官僚

企業でもそうですが、官僚が増えすぎると実利のない政治ばかりに労力が費やされることになりますが、宋も同じように科挙が充実し、毎年何百人の官僚が登用されると、「新法・旧法の争い」と呼ばれる官僚同士の争いが始まります。

社会全体へのメリットは考えず、自分の利益になる旧法に拘る旧世代(華北勢力)、実績を上げて勢力図を変えたい新世代(江南勢力)が激突します。広い中国では日本以上に同郷者で固まります。マンダリン(共通語)は宮廷語であり、方言はお互いに理解できない以上に違うので、当然といえば当然でしょう。

日本でも江戸時代、大名お世継ぎが江戸で養育されるのは人質の意味だけでなく、標準語の習得の意味合いもあったようです。島津家を継ぐとは思われていなかった島津久光は標準語が話せず、上奏を文語でして失笑された、と聞いたことがあります。薩摩弁は強烈だったのでしょう。

さて、話が逸れましたが、軍人が力を持つとクーデター、官僚が力を持つと政治闘争が始まる、というジレンマで上手いバランスを取るのは困難と言うことなのでしょう。そして、優秀な独裁者も寿命があるので、ずっとは続きません。

現代では当たり前に成った民主主義を取り入れないなら小数の皇帝個人スタッフで運営し、軍人の上に置くことで文民統治を確立し、地方官は定期的に入れ替えをすることでしょうか?今の中国がこんな感じですね。

滅亡

北宋は問題を抱えながら、八代徽宗まで継続します。ありがちな流れですが、官僚同士の融和を図るために旧法、新法、どちらからも登用しますが、そんなことが上手くいった試しは歴史になく、世はどんどん乱れていきます。トップが方向性を決めて突き進むしかないのです。

内部が乱れてくると、外部からの圧迫を受けるのがパターンであり、北方民族の遼が周辺国を平定して勢いに乗ると北宋を圧迫してきて、その圧迫から逃れる為に金の力を借ります。(金は後年、清として中央政権になる女真族です。)

金との協力で遼の圧迫を排除すると、北宋は調子に乗って金を排除しようとして遼の残党と組んで牽制をする、という完全な裏切り行為をします。そうすれば、怒り狂った金は北宋へ侵攻、北宋はまともに対峙できずに皇帝、徽宗は逃亡します。

息子、欽宗が金の包囲を上手く凌いで、莫大な財産を与えることを約束して引き上げさせ徽宗は帰還します。金からの正式な講和条件はとても受け入れられるものではなったため、再び遼の残党と手を組もうとしたところで、金は怒って再び包囲して首都、開封を制圧します。しかし、欽宗の弟、高宗が外地にいた為、難を逃れており、金も更に南下するほどの余力がなかったため、南宋を建国し、中国は二分化されます。

この一連の流れを靖康の変と呼びます。その幕引きは凄惨なもので、男は皇族、官僚を含めて数千人が北方に連行されて囚人、奴隷になり、女は金の将官の妾にされるのはまだマシ、酷い場合は売春婦にされます。

漢民族も激しいですが、狩猟民族の北方系民族の方が更に激しいですね。モンゴル人からすると朝青龍は表裏のない好人物で、白鵬はいい子ちゃん過ぎて何を考えているのかわからない食わせ物、という評価だと聞いたことがありますが、金の行動を見るとわかる気がします。

まとめ

中国は多民族国家であり、最大多数の漢民族のほかにも多数の少数民族が住んでいます。その少数民族が中央政権に来ることになったきっかけが金であり、この金が拾得した少数民族が漢民族を支配するノウハウが元、モンゴルのチンギス・ハーンに受け継がれます。

現中国共産党の少数民族支配、実行支配地域の根拠は歴史です。歴史を紐解けば、中国というのはかなり広域であり、他民族が行き交う大陸であり、そのすべての人が「中国人」であり、そのすべての取りが「中国」なのだ、ということらしいです。こうして、漢民族もやられている歴史があるのだから、言いたいことはまったくわからないでもないです。

中国の軍事行動を舐めている人に言いたいですが、彼が本気で日本に侵攻して制圧したら、本気で男は奴隷、女は売春婦にされる可能性があります。実際、例があるってことを忘れるべきではないです。甘ったれた平和主義で彼らと友達になる、とかいう左翼はこの事実をどうみるのでしょうか?

改めて調べれば、調べるほど、中国は恐ろしくも偉大な国であり、絶対に侮ることの出来ない超大国なのだな、と思い知らされます。

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投稿者: シン

思いついたことを記事にして、コメントをもらって、議論するのが楽しくてブログをやっています。

“じゃあ、北宋” への 14 件のフィードバック

  1. リクエストありがとうございます。
    当時としては、統治方法、政治システムや文化、経済発展は素晴らしい国だったと思います。
    中国にしては緩い治め方をしており、明るい時代であり、平和を金で買う現代の日本のような感覚なんですかね。

    皇帝の人柄も秀吉みたいというのも納得できます。商人にウケた点やムダな殺生をしないことが似てるかもしれません。
    また、骨董品なんかはなんとか鑑定団で宋の時代のものは非常に価値がありますし、文化、経済、政治が発展して科挙のやり方かもしれないですが文系エリートが作ったような国です。
    理系エリートもいたら中国は凄い国になってたかもしれませんね。

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    1. こちらこそありがとうこざいます。

      宋は皇帝自身も芸術愛好家で、大きく文化発展した時代でもありますね。軍事力、技術力の軽視が外圧に屈することになるわけですが、この辺は今の日本と似ているかもしれません。

      シン

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      1. 北宋最後の皇帝の徽宗は、書道や歴史の教科書に載るような芸術家で私も漢字を見たら芸術的な綺麗な字です。日本に国宝が残ってます。
        そのせいで、政務に無関心で重税をしてしまったために金に連行されてしまいましたね。
        産まれてくる時代を間違えましたね。
        皇帝が象徴なら人気がでたかもしれません。

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        1. 日本の天皇陛下、皇族の方達は研究、芸術なんかをやっている人が多いですし、象徴としての皇族が一線級の芸術家なら国民に慕われそうです。総理大臣を兼ねた天皇陛下が芸術にかまけて、政治を放置、芸術の為に重税をかける、とかなら話になりませんけどね。

          シン

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    2. 紙、火薬、羅針盤、印刷技術は、中国発祥ですが発展したのはルネッサンス期の欧州でした。
      私が思うには、東アジアでは中国が圧倒的な一強なのに対し、欧州は群雄割拠でなおかつ後進地域であったがために科学の発達が国家の興亡に強く関わったのじゃないか?と理由づけてみました。

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  2. 隋(唐)のように軍事力や外征で治めた反省から宋のような統治方法に切り替えたのかもしれませんね。その反省からか次の漢民族の王朝は明の朱元璋で激烈な人でしたが。
    ただ、宋は、官僚や商人中心の文化だったために金や遼にいい顔してその場しのぎの優柔不断さ、商人のビジネスのために異民族に同盟国にはお金を渡すだけで派兵しないならさすがに金もキレたという結末を迎えましたね。

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  3. マクベの壺が北宋のものでしたね。文化的に大きく華が開いたのでしょう。
    いわゆる中華料理はこのころにできたらしく、強力な火力を使ってガンガン炒めるのはこのころから始まった
    らしいですね。それまでは日本の精進料理みたいなものだったらしいです。
    北宋偉い。

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    1. 日本史、世界史に大きな影響がなくても極めて文化的で優れた国だったってのがわかります。
      また、唐の都長安は門限があったみたいですが宋の開封は繁華街のような賑わいだったそうです。
      だから、金が華北を支配しても民衆はなかなか従わず統治に苦労したそうです。

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  4. 宋の目玉政策の文治政治ですが、宋の時代では軍事力を放棄したためデメリットが目立ってしまいましたが、きちんと役人を選抜をしているため南宋になってからも国を立て直すことができました。
    日本の場合は、武士というか軍人にそれなりの教養や徳があったためにわざわざ文治政治だの、節度使どちらがいいのか?ってジレンマに悩まされなかったのではないでしょうか?
    中国は広いので、官僚と軍人をわけなければならないのかもしれませんが。

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    1. 日本は中国から様々なものを取り入れましたが、科挙だけは取り入れなかったので官僚が登場するのは明治の高等文官試験からです。

      シン

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      1. 宦官も取り入れませんでしたよね。
        科挙は中世にしては先進的で偉大な制度だとも思うのですが、宦官は理解不能です。
        あれ、なんなんでしょうね。どこか狂ってるとしか思えません。

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        1. 確かにそうですね。後宮にあたる大奥は存在していますが、宦官はいませんね。欧州にも初期キリスト教では去勢があったみたいです。まったく取り入れる必要のない制度だと思います。

          シン

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  5. 歴史を紐解くならば、中国は冊封体制が基本であり、周辺国を朝貢国とすればそれ以上の苛烈な支配を行わなかったようです。
    一方、日本は冊封体制に加わることなく完全な独立を維持し、トップの天皇を中国皇帝と同格に位置付けて1500年以上も継続し、両国の政権とも、お互いに無駄な軍事衝突は避けるよう注意してきた節があります。
    大陸が日本に侵攻を企てたのは世界制服を成し遂げた元(モンゴル)だけで、それも大失敗に終わりました。また、大帝国である清(満州族)の全盛期を築いた康煕帝・乾隆帝でさえ、日本侵攻は諦めていた節があります。朝鮮出兵で秀吉が明軍を散々打ち破り、それが明滅亡の原因になったことが強烈に印象に残っていたのでしょう。

    歴史を見れば中国よりも、欧米列強の方が苛烈な支配を行っています。スペインの南米支配、イギリスのオーストラリア支配、フランスのアフリカ支配など酷いものです。そして南米はアメリカの経済植民地となっているため現在も反米の空気が強いそうです。

    私は中国より欧米の方が激しいと思うし、日本の底力を信じています。
    中国が外部侵攻を行うとしたら、日本より韓国・台湾・フィリピンが先に陥落するはずで、そうなったら危機感が高まり日本人は必ずや覚醒するでしょう。
    白村江の戦い後、明治維新後、敗戦後といった危機の際に日本人がどのような行動を取ったか、歴史が教えてくれます。
    弱肉強食の19世紀末にも植民地になることなく、逆に列強の一角に成長した日本の底力は凄いですよ。

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    1. でらさん
      一説によると秀吉が朝鮮出兵行った理由として諸外国に舐められないようにするためって説があります。
      スペインやポルトガルなんかは征服した国の仕打ちは酷いことでしたからね。
      ただし、当時の日本は世界最強の軍事力を持っていたらしく、関ヶ原の戦いは近代兵器の衝突だそうです。

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