じゃあ、ピョートル1世

ロシアのツァーリと言えば、この人、ピョートル1世についてリクエストがあったので書きたいと思います。

継承

多くの名君は激しい内部抗争を経て地位の継承していますが、ピョートル1世も同様に継承順位3位からのスタートです。幼少の頃は皇位継承するとは思われておらず、郊外で自由に成長していき、その中で外国人村に出入りしたり、様々なスキルの習得に勤しんだことと思われます。

皇族がそんなことを覚えてどうするの?というような大工仕事から歯科技術まで覚えているので、その必要があってやったわけではなく、趣味の一環としてやっていたのでしょう。好奇心が強く多才な人です。

ピョートル1世が帝位につく前、ロシアは平安時代のように皇帝専制ではなく、皇帝外戚、有力皇族による間接支配体制になっており、母親の実家の力で兄のフョードル3世が皇帝になったものの早世し、更に軽い障碍があったイヴァン5世が即位するも早世、と目まぐるしく権力闘争が続いていきます。

病弱なイヴァン5世に代わって、姉、ソフィアが実権を握りますが、康熙帝時代の清とネルチンスク条約を結んだことで権威が落ち、実権を手放しピョートル1世の時代になっていきます。ちなみにネルチンスク条約でロシアにとって悲願である不凍港を得られなかったのが負けに等しいと判断されました。

ロシアにとって不凍港は常に悲願であり、外征とは不凍港獲得の為であり、先の清との紛争だけでなく、バルト海の制圧、黒海進出などが宿命です。日露戦争で日本が際どい勝ちを収められたのは日英同盟でイギリスが黒海を塞ぎ、黒海艦隊を動かせず、バルチック艦隊を遥々日本まで遠征せざるを得ない状況に追い込んだことが大きいです。そのくらいロシアは不凍港を抑えないと身動きが取れないのです。

外征

ロシアを継承したピョートル1世に課せられた課題は不凍港の獲得であり、アゾフ遠征で黒海へと進出しますが、オスマン帝国海軍の抵抗で失敗します。ここでピョートル1世は砲撃下士官として実戦に参加したといわれます。海軍の重要性を理解したピョートル1世は海軍編成に手を付け、あっという間に海軍を作り上げます。その結果、アゾフは陥落させますが、黒海制圧までは成し遂げられず、外交政策に転換していきます。

ピョートル1世は西欧諸国に比べてロシアは遅れており、西欧から学ばなければ、ロシアの成長はないと考え、使節団を西欧に送ることを決め、ピョートル1世本人も偽名を使って施設に紛れ込む、という荒業を成し遂げています。アムステルダムでは船大工として自らが働くという皇帝とは思えないことをしています。

本来の目的だった西欧との対オスマン帝国包囲網をする為の軍事同盟は成し遂げられませんでしたが、様々な最新技術を吸収し、ロシアへ持ち帰ったことが、今後の成長につながっていきます。西欧諸国はスペイン王位継承戦争への興味が移り、オスマン帝国と停戦し、ロシアもアゾフの領有権獲得を条件に停戦します。

次のターゲットはバルト海の制圧、強敵、スウェーデンとなり、宿敵、カール12世との抗争に突入していきます。ナルヴァの戦いで窮地に陥るものの、辛抱強く対応しナルヴァを落とします。スウェーデンはイギリスと手を組み、ロシアに対抗するものの、最終的には大幅に譲歩することでロシアに屈します。

大北方戦争を勝利することで、念願のバルト海の制圧を成し遂げ、不凍港を確保、ロシアはポーランド、リトアニアを保護国として支配します。こういった事情があり、日露戦争で日本がロシアを撃破すると、トルコ、スウェーデンが歓喜し、ポーランド人は未だに親日の人が多いといわれるのでしょう。

内政

ピョートル1世は外征で成果を出しただけでなく、内政においても大きな成果を上げており、西欧化を進め、ロシアの古い伝統を壊したこともあり、保守層の反感を買ったようです。貴族に新しい爵位を与えることで、階層化し、長子以外は軍勤務を強要しています。また、官僚制度の確立を行っています。

また、宗教改革にも積極的でイギリス国教会を参考に、ロシア正教会を国家管理利、国家を超越するような存在ではなくします。国家による統制には反発も強かったようですが、西欧の事例を考えると、そのままにしておけない、と考えたのでしょう。

新都、サンクトペテルブルク建設のためにかなりの重税を課したため、反乱がおこっています。当時、ロシアでは徴税制度がうまく機能しておらず、汚職で農民を苦しめることになり、これは後々まで解消されず、エカチェリーナ二世が啓蒙思想の観点で改革しても上手くいかなかったのと原因は同じだと思います。

サンクトペテルブルクは大北方戦争で手にしたバルト海の交易権を最大限に利用するための遷都だと言ってよくバルチック艦隊を手元に置き、西欧の情報を素早く手にし、動くことができるように、との意図でした。名前もドイツ語ですし、ピョートル1世はドイツびいきで、それが後継者たちにも受け継がれていったのでしょう。ソビエト連邦がモスクワに戻すまで首都となります。

まとめ

気さくな大男であり、自らが動き、自らで学び、民衆と共に歩んだ皇帝であり、死に際も乗り上げた船の救出に自ら真冬の飛び込んで、体調を悪化させて亡くなっています。なんか、本当なのか信じられなくなりますが、当時から外国人村で別人がすり替わった、とか言われていたそうです。

改革者とは自らの背中で語らなければならない存在で、率先して動くことでこれほどの一大仕事を成し遂げられたのでしょう。ロシアにとっては不凍港獲得は強国として成立する絶対条件であり、これを西、南に確保できたのは極めて大きく、日露戦争は東の獲得戦争だと言っていいと思います。

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