じゃあ、西太后

いつもの歴史リクエストを書いていきます。今回は清、西太后についてです。この人は皇帝にはなっていませんが、絶対権力者として君臨しました。

西太后の実家は清の有力貴族だったそうですが、父親は地方巡業をしており、西太后は地方で生まれたそうですが、それがどこかはわかりません。その父親は太平天国の乱に巻き込まれて心労たたり亡くなります。西太后は父親が亡くなる直前に妃選抜試験を受け合格、父親が亡くなってすぐに後宮に入っています。

父親が権力者だったのでねじ込んだ、というわけではなく、見た目がよく、教養があったので選抜試験に合格したのでしょうし、妹も皇族に嫁いでいるので、美人姉妹だったのだろうと思います。現在残る写真、精密油絵などは後年のものであり、どのくらい美しかったのかはわかりませんが、昔はきれいだったのだろうな、という雰囲気のある肖像画が残っています。

さて、西太后の夫は清、9代皇帝、咸豊帝です。この人は清に多い名君という感じの人ではなく、父親の道光帝が他に大した後継者がいなかったので、消去法的に選んだようです。まったくの無能ではないので、平和な時代の皇帝をするのであるなら無難にこなしたのかもしれませんが、太平天国の乱、アロー戦争と続く国難を乗り切るだけの能力はなく、次第に諦めて政務を見なくなります。

その咸豊帝の側室だったのが西太后で、これは西とは側室だったということを示しています。正室は東です。日本でも皇太子殿下は東宮と呼ばれるように、序列的に東から西ということで、太陽の動きから定められたのでしょう。さて、側室だった西太后が権力を握るには跡継ぎを得て、皇帝の母になる必要があります。西太后は見事に息子を得ただけでなく、成人した男子はこの息子だけだったため、後継者争いなく、皇帝になることが保証されます。

クーデター

アロー戦争により首都を離れた咸豊帝が亡くなると同治帝が後継することになります。咸豊帝は亡くなった時点で30歳であり、同治帝はわずか5歳の子供なので実権を狙った政争が始まることになります。西太后は咸豊帝の遺命を受けた8大臣を排除するため、同じく妃の東太后、妹の夫、恭親王と結んでクーデターを起こし政権を奪取します。これを辛酉政変と呼びます。

意外なんですが、西太后は東太后を粛清もしていませんし、激しい争いをしていません。「女は嫉妬深い」「女を政治関わらせるとろくなことにならない」という世間一般のイメージで西太后を悪女とするようなイメージがありますが、名を捨てて実を取る、という権力志向であり、残虐でも理不尽でもありません。

東太后は政治には興味がなく、自分の身が安全で贅沢三昧していれば、西太后が好き勝手やってくれて構わない、という態度であり、同じ宮廷内の東に住み、西太后が西に住んだので、彼女たちは東太后、西太后と呼ばれるようになります。

もう一人の同盟者、恭親王は道光帝の息子、咸豊帝の弟です。子供のころから聡明で知られていましたが、後継者になることはできませんでした。兄との関係は悪くなかったようで、大臣を務めていたのですが、危篤の母親へ皇太后の称号を与えたいと咸豊帝に懇願すると、関係は悪化して半ば干されたような形で権力から当座買っていました。

アロー戦争が終結すると、恭親王は後処理をすることになります。結果、欧州列強との不平等条約を締結することになり、評価はボロボロになり、ひたすら陰口を叩かれる役割となります。ボロ負けしているうえ、責任者の皇帝は逃げてしまっているのだから、誰がやっても同じ結果なのでしょうが、憎まれ役になってしまったんですね。

というわけで、身の安全と資産保持さえ確保できれば、それ以上のことは興味のない東太后、皇族であり政治家としての野心を強く持つ恭親王、次期皇帝の生母である西太后が手を握ることで、クーデターは発生します。そして、表を恭親王、裏を西太后が支配する、という形になります。

トップ

幼い同治帝は長じるにしたがって実権を握ろうとしますが、母親の西太后によって無力化されたため、やる気を失ってフラフラしていたそうです。一説によると遊郭通いで梅毒を患って亡くなったそうです。死因はわかりませんが、同治帝は若死にすることになり、後継者が必要になります。

そこで、光緒帝が即位することになるのですが、この人は西太后の妹の子供であり、同治帝の従兄弟になります。そして、西太后の姪を娶ることになるので、ガチガチに行動を制限された状態からスタートすることになります。それだけでなく外圧、内乱と大混乱になっていき、手が付けられません。

その一方、もう一人の権力者、東太后は死去、恭親王は清仏戦争の後処理を命じられて、その責任を取らされて失脚、となり、西太后は絶対権力者へと昇りつめます。西太后は洋務運動、と呼ばれる西洋化を推し進める官僚たちを抜擢し、一定の成果を上げるのですが、流れは変わりません。

欧州列強の食い物になっていく清にもう一つの脅威が迫ってきます。明治維新を成し遂げ、急激な西洋化を進める日本が国防のために清の支配地域である朝鮮半島へと進出を開始し、激突が避けられなくなってきます。さすがに日本には勝てるだろう、と思っていたのでしょうが、これも実力差は明らかで敗北します。

日清戦争の敗北で奮起し、明治維新に倣った、技術的な西洋化だけでなく、体制的な西洋化を進める変法運動が起きますが、これに対して西太后はどうしようか悩んだようで積極的には関わらず放置していたみたいです。この難局を乗り切るほどの変化は起きず、更なる衰退につながります。

とどめを刺したのは義和団事件です。日本の尊王攘夷運動みたいなもので、それが反乱軍として大きくなり、西太后はこれを支持してしまったため、日本を含む列強はいい機会だとみて、一気に叩くことにし圧勝しました。日本にすら勝てないのに連合軍に勝てるわけもありません。

光緒帝、西太后はここでようやく西洋との実力差を心の底から認識し、光緒新政を開始し西洋化の促進、日本の先例を調査するなど、具体的な動きに入ってきます。西太后は70歳を超える高齢ながら、英語の勉強を始めるなど、本気でどうにかしようとしたのがうかがえます。しかし、時すでに遅し、光緒帝、西太后はすぐに亡くなり、中国は長い暗闇に入っていきます。

まとめ

悪女のイメージはありますが、明らかに酷いことをしたわけでもなく単に権力欲が強かったため、機会に乗じて実権を握っただけだと思います。有能だったとは言えませんが、時代があまりに悪すぎたともいえますし、洋務運動に理解を示し、西洋化を進めて戦おうともしてますので、まったくの無能ではないと思います。

中国史で女性が絶対権力者になったことが武則天、西太后の二人くらいしかおらず、必要以上に注目されるし、叩かれることがある節はありますが、先にも記事にした武則天と同様にさほど酷い政治家ではないと思います。しかし、エカチェリーナ二世のように名君だったとも言えず、ほどほどの実力なんじゃないでしょうか?

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