今年の目標として、身近な法律を学んでいこうとしているのですが、気づいたことを記します。法学は語学にすごく似ています。
語彙
法学を基として書かれた文章って、日本語のはずですが、初めて見ると面食らいます。それって、最低限必要な語彙が頭に入ってないので読むことすらできないんですよ。それが徐々に法律用語が理解できるようになると、徐々に頭に入って来ます。
私が英語の初学者だった頃、簡単な英語の文章を読みながら語彙を増やしていったことを法律の勉強で思い出しました。いきなり、法律用語だけを覚えまくるなんていうのは難しいですし、苦痛なので文章理解の中で増やしていくのが無難です。
長く接していれば、センスのない人でもある程度までの法律解釈は可能になり、自分の身を守る程度には理解できるようになるんじゃないかな?と思います。自分が住んでいる国のルールを知っていて損はないと思います。
ツール
法律も語学と同様にツールなので、それそのものを勉強しても、ほとんど意味がありません。最難関の司法試験ですら合格しただけでは飯を食っていくことと出来ず、司法書士、行政書士は言わずもがな、です。
だから、法律を何のために学んで、目的の為にどんな独占業務が必要なのか?を予めハッキリさせないと、漠然と資格、資格と勉強しだしても、取った後にあまり意味なかったことに愕然するだろうな、と思います。
ロースクールの残骸は具体的な着地点を見つけることなく、フワフワした謳い文句だけで突っ走った結果ですが、ツールである以上、これは仕方ないことだなぁ、と思います。需要に対して供給すること、という基本を無視したんだから、酷いことになるのは当たり前です。
曖昧
法律って、語学と一緒ですごく曖昧です。ある人たちは法律は論理学だと言いますが、あまり論理的ではないように思います。やはり、文系的というか、人によって解釈の仕方が沢山あってひっくり返ってしまうし、国によってまったく違います。
法律を生き物だと解釈するなら、それも理解できます。語学と同じです。世の中で人と一緒に生きているものだから、その時々で正解が違うし、場所によってルールが変わることもザラにあります。だから、センスがある人、ない人で差が出やすいのでしょう。
法の専門家である、裁判官ですら、人によって見解が違うから、三審制でひっくり返ったりするわけで、人間社会の曖昧な争いを一定のルールに従って判断しているだけで、それは絶対的なものでもなんでもないんですよね。
まとめ
私が法律を勉強しても、目に見える実利はないと思いますが、新しいことを学ぶのは楽しいですし、出来るだけ身近な法律を学ぶことで、イメージがしやすくなります。ルールを知らないと、損することもあるでしょうし、予備知識として薄っすらでも頭に入っていると、いざ、必要な場面に思い出すかもしれません。
スキマ時間を使って勉強していって、ぬるりと法律議論でもして、机上の空論で楽しもうかな?と思ってます。
安保法案の騒動で、
「ほとんどの憲法学者が反対したから」
「大物憲法学者の長谷部教授が違憲だと言ったから」
などの理由で、違憲だと言っている人が多かったですが、
これは危険な傾向だと思います。
憲法学者は憲法の専門家だから正しいんだろう、と考えたんでしょうが、
憲法学というのは、裁判官の判決をもとに、もっともらしい理論を作っている後付け学問です。
基本的に、誰が言ったかではなく、何を言ったかで、正しいかどうか判断するべきですが、
医学などの理系学問に関しては、一般人が学者より詳しいなんて事はあり得ないので、
誰が言ったかで、判断してしまうのもやむを得ないです。
しかし、憲法学者については、一般人よりはちょっと詳しい人、くらいの認識で十分だと思います。
そして、公式に違憲かどうか決める権限があるのは裁判官で、憲法学者ではないです。
日本中の全ての憲法学者が違憲だと言おうが、最高裁が違憲判決を出さなければ、違憲にはなりませんから。
高裁や最高裁は、まだまともですが、地裁レベルの裁判官だと、バカも意外といるイメージです。
三鷹バス痴漢冤罪事件では、犯行をやった証拠がないのにもかかわらず、東京地裁は、やっていない証拠もないとして、有罪判決を出しました。
推定無罪の原則で、やった証拠がなければ無罪判決を出すのが、司法の大原則です。
当たり前のことで、やっていない証拠がないだけで有罪にしていたら、冤罪だらけになってしまいます。
冤罪は絶対にあってはならない事なので、クロなら有罪、シロなら無罪ではなく、クロなら有罪、グレーかシロなら無罪にするものです。
法律というのは理系学問のように自然界のものを相手にしてないので、世界中どこで同じではないんですよね。STAP細胞はありまぁーす!っといくら叫んでも、同じ条件下で再現できなきゃ、ない、もしくは条件が間違っている、と判断されるわけで、世界中何処でも同じです。でも、法律だと、日本の長谷川大先生が違憲だといったから、で納得する人が現れてしまうんですよ。憲法なんて不変性は一切ないのに、一個人の泰斗がそういうから!が理由になってしまうのです。そういう曖昧なものなんですよね。
法律がなきゃ、現代社会は成立しませんが、それを専門としてやるようなものではなく、あくまで限られたセンスある人がやるか、趣味でやるものだと思います。
シン
>法の専門家である、裁判官ですら、人によって見解が違うから、三審制でひっくり返ったりする
→ 裁判官の持つ知識・常識は皆ほとんど同じであり、過去に判例の出ていることでの判決はそう違わないと思うんですが、変化の激しい現代社会では法律がカバーできない問題が多く発生しており、そういった新しい事件が起きたときにどう判断するか、見解が分かれるんだと思います。
法律ができるまでには国会やら審議会で長い議論・審議が必要なため、社会の変化に素早く対応するのは不可能です。
ビジネスでも犯罪でも法律の隙間を突くものや脱法行為が多いため、そこでどう判断するか、見解が分かれるのは当然だと思います。
昔から判決に対する少数意見、反対意見がつくことはあるんで、現代社会だからってことではなく、法とは曖昧なものなのでしょう。人間が人間を裁いているんだから、絶対的に正しいことなんて存在しないので、出来るだけ公平に決めましょう、ということなんだと思います。
シン
やはりシンガポール法を勉強されているのでしょうか
法律の上で胡座をかいていても誰も護ってくれません。自身が理解して運用した時にはじめて法律が自分を護ってくれます。知らないは自ら権利を放棄しているのと同じ事ですね。生活保護や各種助成金等も知って申請しないと貰えません。同じ事ですね。
法律は単に知っていることに意味はないですからね。どれだけ行動できるか?が、本当の「リーガルマインド」だと思います。
シン
私のイメージでは、法律の知識と状況証拠を混ぜて「手札」を作っていくカードゲームのようなイメージですね。「法的手段を取ります」なんて言葉は脅しにもならず、「○○(状況)は××(法律)に触れませんか」と言えないと意味がありません。肝心なのは自分で手札を作れることです。