じゃあ、始皇帝

いつもの中国リクエスト、今回は漫画、キングダムでお馴染みの始皇帝です。

生い立ち

始皇帝は政と言う名前で、幼いころは嬴政と呼ばれていたそうです。苗字がとんでもなく難しい漢字ですねw この人は王族の生まれなんですが、傍流も傍流で王位を継ぐとは本人もまったく意識せず、成長したのだろうと思います。曾祖父が王様ですが、祖父は後継者でもなく、父は妾腹の庶子であり、他国である趙に人質として出されていました。

始皇帝の父、子楚は趙で呂不韋という商人に出会います。それが子楚の人生の転機になります。呂不韋はお金をふんだんに使って政治活動を行い、子楚はふんだんな交際費を使って社交の中心的立場になっていきます。これが「奇貨居くべし」という故事になっています。

呂不韋としては逆張り、投資として知り合った傍系王族の若者に自分の手にしたお金をつぎ込んで、更なる出世を狙ったんです。いくらお金があっても施政者の権力にはかないませんしね。そして、自分の妾、趙姫を子楚に与え、その趙姫は男の子を生むことになり、それが始皇帝というわけです。だから、始皇帝が呂不韋の子供だとする説もあります。

そして、祖父、安国君は兄の死によって王位継承者となります。その安国君は息子、子楚が人質になっているのを無視して趙を攻め、子楚は妻子も伴わず逃げたため、嬴政は母、趙姫と逃げるように生活します。安国君が即位し、子楚が太子になると、嬴政はようやく人質から解放され、秦に戻ることができます。

生い立ちとしては日本の徳川家康に似ているのでしょうか?血縁関係すら、何とも言えないような非業の家族を持ち、人質として逃げ回って成長しただけでなく、父親は若くして亡くなってしまい、実権のない状態で家督相続しています。

即位

父、子楚も即位からたった三年で亡くなると、嬴政は若干、十三歳にして秦王となります。この経緯から言って、実権を握れるわけもなく、呂不韋が丞相として実質的最高権力者として君臨します。そりゃ、まったく王位継承見込みのなかった子楚を王位につけたのは権力の為です。

嬴政はそこからは秦を統一することから始まることになります。まず、自分の母親が元恋人だった呂不韋とよりを戻し、それを危険と見た呂不韋は精力抜群の愛人を送り込み、その愛人との間に子供が生まれます。そうすれば、母親は自分の幼子が可愛くなり、クーデターを起こします。そして、実の母親を罰しました。

次は呂不韋の駆逐が必要になり、母親との連座で中央から叩き出すことになります。その呂不韋は器の大きな人物であり、食客を多く抱えており、そこには優秀な人材が何人もいたため、そう簡単に彼を叩き出すことも出来ず、家中をまとめるだめにかなり苦労したのだろうと思います。

この辺は日本の織田信長に似ており、父親の死によって若年で家督相続するものの、家中は割れており、弟を支持する母親、重臣たちとの血みどろの争いをして家督相続をしており、すんなりと継承すらできていません。

制度

皇帝、という言葉は文字通り、始皇帝が使い始めたことです。元々、中国ではそれぞれの絶対権力者に対する称号があったのですが、始皇帝は自らを初代皇帝とし、二代目、三代目、と続けていくことに決めています。

元々、秦は商鞅以来「法」を重視する国です。それに始皇帝は磨きをかけ、元々は呂不韋の食客だった李斯を登用し、法支配の原則を作り上げています。これは当時としてはかなり先進的な考えであり、これは現代社会に繋がる大きな人間社会の基礎を始めていたということです。

また、封建社会の打破を目指し、中央集権化を進めました。皇帝の元、官僚が郡県制度にして地方を収めるという形をとっており、このスタイルは国民が同じ方向を向きやすくなるため、一気に政策を推し進めることが可能になり、他国を打破するだけの国力を付けたといえるでしょう。

絶対君主制、中央集権化に対する反発は大きかったよ上、悪名名高い焚書坑儒は反発する学者、考え方を抹消してしまうために実施されています。秦の時代が終わるとすぐに元の封建制度に戻っていることを考えると、始皇帝の政策はあまりにも早すぎたんでしょうね。

焚書坑儒は信長の比叡山焼き討ちに近いの事件なのかもしれません。そういう意味で始皇帝とは改革者です。そして、その後の江戸時代が制度が逆戻りしている点も同じですね。激しすぎる、新しすぎることはその反動も大きいということなのかもしれません。

まとめ

中国の新時代は長くは続かず、始皇帝、というカリスマ亡き後、宦官の跋扈、功労者の排除、後継者争い、へと突き進み、あっという間に秦は崩壊し「項羽と劉邦」の時代へと歴史が進んでいきます。

独裁者としての絶対の力を持つ項羽でなく、劉邦が次世代の皇帝になったのは中国は中央集権化にはまだまだ時間がかかり、皇帝親族、重臣たちが王、候として各地を治めるほうが性に合っていたのでしょう。

大国、中華人民共和国の中央集権化、上手く歯車がかみ合ったときはやはりすさまじい発展をするわけで、同じく大国のインドが中央集権化の遅れから遅々して発展が進まないのを見ると、中国は始皇帝の時代から中央集権化が試験的に行われていたわけで、イギリスが来るまで中央政府が存在しなかったインドとは違うよな、と思います。

5+

投稿者: シン

思いついたことを記事にして、コメントをもらって、議論するのが楽しくてブログをやっています。

「じゃあ、始皇帝」への6件のフィードバック

  1. リクエストありがとうございます。
    人柄としては、信長のような合理主義の人物ですね。
    また、これから続く長い中国の統治の方法の基礎を作った人ですね。

    ただし、厳しすぎる統治のために短命政権になりました。

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    1. 人の世は理屈通りではなく、理不尽なこと、感情的なことが沢山あります。それがまったくなくなってしまうと、逆に息苦しさを感じる、というのはあると思います。

      中華人民共和国の徹底した中央政権は発展には望ましいですが、息苦しさがあり、国民の移民願望がなくならないのはあると思います。北京、上海ならなんでもあるし、不便なんてなくても、もっとゆったりした環境に憧れるんでしょうね。私は毒ガスみたいな空気が嫌すぎますけどw

      シン

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      1. 万里の長城の土木工事に大雨で到着が遅れてしまい死刑になるから反乱を起こしたのが陳勝・呉広の乱なのでいくらなんでもやりすぎですよね。
        始皇帝は、厳しい人だったんだと思います。

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        1. 怠惰を理由とした遅れでもないのに一律に罰則を設けると、どうせダメなら暴れてやろう、となってしまうので逆効果になりますね。

          シン

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          1. 始皇帝の法科の思想で法律やシステムに従って例外を認めないという恐ろしい恐怖政治です。
            焚書抗儒は、目上に従う代わりに権力者が徳を持って国を治めるっていうのにカチンときたというのを習いましたね。

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  2. 昔、中学の社会の授業で英語で中国を表すChinaの語源が秦(ラテン語?なに語?Chine)からだと聞いたことあります。
    15年の短命政権ですが、始皇帝の中国統一の偉業の凄さを感じますね。
    キングダムや故事がいろいろありますしね。

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