じゃあ、三人の秀勝

豊臣秀吉は身内に三人に秀勝と名付けています。

石松

この人というか、この子は秀吉が長浜城主時代に産まれたのいう伝承がありますが、詳細不明です。傍証はありますが、はっきりとした実在を示す証拠はないので詳しいことはわかりません。正室の寧々が母親でないことは確かのようで、実在するしたら側室、妾が産んだのでしょう。

長浜城主時代に産まれたとすると、秀吉が三十半ばになってからなので、当時の感覚からするとかなり遅い第一子となりますから、庶子にしても大喜びしても良さそうなものです。長浜には石松君に因んだお祭りといわれるものがあるそうなので、その当時は大騒ぎだったのかもしれません。

子供のうちに亡くなっているのに秀勝、という諱が伝わるのは元服はしていたのでしょうか?元服までした子供が亡くなれば、大騒ぎだったでしょうし、記録に残って然るべきだと思いますが、どういうことなんでしょうね?

於次

実子による後継を諦めた秀吉は、信長の子供を養子にすることを願い出ます。信長は実子に男子がたくさんいるので、まともに相手にしているのは三男まで、それ以降はほとんど無視しています。於次君は四男です。

これは保身もあったんだと思います。リベラルな織田家中でも元百姓という人は他にいませんし、いかにも土民の匂いのする秀吉がバカにされまくっていたのは間違いなく、信長の機嫌取りだけでなく、同僚向けの牽制もあったのでしょう。

彼は元服はしてますし、秀吉の出世に伴って官職も得てますし、所領ももらっています。ただ、早死にしたようで、秀吉が天下人として確立する前に亡くなり、後継者争いには参加していません。

最も歴史に名を残したのは秀吉の信長葬儀開催の喪主になっていることです。織田信雄、信孝、柴田勝家が無視してきたので、自分の養子であり、信長の子供である秀勝を名代として大義を得たのですね。

第二世代なので、優秀な側近をつけられて多少の働きはしたみたいですが、良いも悪いもない、という程度の記録しか残っていません。

不要になったことで暗殺説もありますが、それはないと思いますね。織田家直系、信忠の長男、秀信は秀吉が亡くなった後まで生きてますし、持ち駒をあえて殺す意味もないと思いますね。

小吉

於次君が亡くなるのとほぼ同時に登場するのか小吉君です。秀吉のお姉さんの息子、秀次の弟です。彼は背のり?と言いたくなるほど、於次君に乗っかって名前どころか、官職まで同じものをもらっています。丹波少将と名乗ってます。

前任者と同じように優秀な側近に支えられて可もなく不可もなし、という働きをしていますが、朝鮮出兵中に病死してます。二十歳そこそこの早死にですので、その後の後継者争いにも参加していません。そもそも後継者として認識もされまいません。

この人は嫁の方が有名人で、徳川三代将軍の母親である江です。小吉君が亡くなった後、徳川秀忠に嫁いで、家光を産んでいます。秀忠は三人目の夫です。初婚は佐治一成という親戚筋の人と結婚して理由は不明ですが離婚、小吉君とは死別、秀忠でようやく落ち着きました。

この小吉君と小江の方には子供に女の子もいて、淀君の猶子として九条家に嫁いで出す。回り回って令和天皇陛下に繋がるみたいです。自分の遺伝子を皇室に残せたという意味では凄いですね。

まとめ

秀吉に実子の秀勝がいて後継者争いがなければ、豊臣政権はもう少し続いたのかもしれません。家康も完全に後継者が固まってから簒奪はかなりの無理筋です。それを言い出すと、本能寺の変で信忠が二条城を脱出していれば、秀吉も簒奪は無理でした。

守る資産がある人がお家、世継ぎ、というのは当たり前なのかもしれません。養子で家を存続可能なのは、完全に安定期に入ってからであり、二代目、三代目が養子ですうまく行くことはほとんどあります。

その意味では秀吉と争った明智光秀、柴田勝家もしっかりと後継者がいたわけでなく、本能寺の変の時点で本人は高齢だが、子供は小さかったようなので、仮に秀吉に勝っても政権継続は困難だったでしょう。

その点で徳川家康は本人が長生き、子沢山、関ケ原時点で秀康、秀忠、忠吉の三人が成人していたのは大きいです。そして、器量で上回ると言われることも多かった秀康を後継者として逆転指名して混乱させず、既に後継が決まっていた秀忠の関ケ原の戦い遅参という大失態に目を瞑ったの英断だったと思います。

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いつき
2 years ago

歴史ネタは荒れる心配がなく、気軽に読んで書き込めるので嬉しいです。秀吉は成り上がりなので他の武将と違って親族が少なく、少しでも縁のある者を必死になって掻き集めて、豊臣家の権力基盤を固めようとしていたのが興味深いです。

そうして秀吉の威光に振り回された人々の数奇な運命は、司馬遼太郎の『豊臣家の人々』で描かれています。後継者に恵まれなかった稀代の天才の悲運と言えるでしょう。面白いのは、こうして秀吉の為に利用された親族が、いずれも女系であるという点です。秀吉を支えた秀長は異父弟、政略結婚で家康に嫁いだ旭姫は異父妹、秀頼が生まれるまでは後継者だった秀次、記事にされた3人目秀勝は姉の子です。皆、秀吉と男系のY染色体の繋がりは一切ありません。秀吉は百姓の出で親族が少なかったから止む無く、という訳でもなさそうです。多くの息子がいた家康でも、生母・於大の方が政略で父親と離縁され他の男の間に産んだ康元・康俊・定勝らを、松平の名字を与えて一族として遇しています。

秀吉にとっては晩年に秀頼が生まれたのが、むしろ豊臣家崩壊の契機だったと思います。秀頼へ後継にする事に執着したため、関白の座まで譲っていた秀次を妻子もろとも粛清するという暴挙に出て、只でさえ少ない豊臣家親族を更に減らしてしまいました。秀次本人の資質は、従来言われていたような「殺生関白」ではなく、戦下手で好色ではあるが、文芸を好む穏健な人物で、政治は優秀な側近に支えられて可もなく不可もなし、といったところのようです。秀次がそのまま後を継いでいれば、実質的に家康が天下を牛耳るのは同じでも、淀殿・秀頼ほど世間知らずの雲上人ではないので、大人しく実権は手放して、形式的な主家か中堅大名として、豊臣家は存続出来たのではないでしょうか。

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