じゃあ、多様な価値観

多様性、と二言目には言われる時代になりましたが、なんだかなぁ、と思う人も増えました。

常識

当たり前ですけど、常識なんて所変われば違うものなので、常識で考えても、相手の常識が違うなら、話は延々と噛み合わないわけで、それはもう仕方ないと思います。長年の風土、慣習によって染み付いたもので、すぐに変わるわけないので、お互いに理解はできなくとも、阻害はすべきではない、と思います。

イスラム教の教えの中で完全に女性の人権侵害しているものがあり、それは是正すべきだと思うのですが、それって、イスラム教の女性が声を上げるべきことであって、無関係の女性が同じ女性の権利が、、、とか言って、首を突っ込むことなのか?、は疑問に思います。

ブルカ着用を強要するのは人権侵害ですが、ブルカ着用の自由はあると思います。少なくとも、特定の思想を持たない公立校なら、ブルカ着用を認めるべきじゃないか?、と思います。逆に郷に入れば郷に従え、と言うように他国の習慣には従うべきですから、マイルールを守りたいなら、移民するな、とも言えます。

アメリカの正義みたいなもので、他国の他人から言われるのは余計なお世話だと思うんですよ。日本のことわざで「小さな親切大きなお世話」と言いますけど、放っておいてやるのが正解だと思います。でも、アメリカで帽子の着用が禁じられている学校で、ブルカをどうしても被る、止めろ!っという自由はあると思います。

弱者様

多様性、と言うなら、否定的な意見も多様性なので、取り入れるかどうかは別にして、意見は意見として受け入れるべきではないか?、と思いますが、言論封殺しようとする人って、結構いて、何が多様化だよ?、と思います。

こういう傾向が見受けられる、という意見を出すと、自分が否定された、と感じて、差別だ!、嫉妬だ!、と騒いで、自分、自分の属性を盲目に守ろうとし、何が差別なのか?、を明確にすることもなく、被害者の弱者様になって、大騒ぎするわけです。

彼らの中では弱者様の声は神の声であり、弱者様に対する一切の疑問、意見は許されない。不快に感じた、という一点がその根拠だ、と世界的になりつつあるのは恐ろしいことだと思います。そう感じた、という感情だけで、一切の反論が許されなくなるなら、独裁政治と変わりません。

上記のブルカみたいに、移民して来た国で、自分達の習慣を貫く為に、多様性、と叫んで、強引にルールを変えさせたら、嫌われないわけがないです。そのうち、俺の家ではタイガーマスクをする伝統なので、学校だろうが、職場だろうが、常に被り物をします、とか言い出す人が現れて、収集がつかなくなります。

アファーマティブアクション

多様性、ということで、アファーマティブアクションが採用されるケースが増えてきました。私は悪いことではない、と思っていて、一定の枠を決めて、マイノリティに機会を与えることで、不平等が是正されやすくなります。

ただし、その枠、選抜方法はきちんと明示されるべきで、そうでないと、逆差別になってしまいます。マイノリティが気に入らないと、能力不足を棚に上げて、差別に選別漏れの原因を持っていき、優遇されるまで、ゴネ続けることになります。

アメリカがそうなりつつあり、マジョリティがマイノリティに対して批判、疑問、意見は全く許されず、公共の場で差別主義者認定されたら、社会的立場を完全に失いかねないくらい徹底的に追い込みをくらいます。

だから、アングロサクソン、ドイツ系白人男性は公共でかなり気を使っていますし、本音を出せなくなって来ています。その本音がトランプ大統領を生んだ一因ではないだろうか?、と思います。建前ばかり言うのは息苦しいのです。

まとめ

多様性、と連呼する人に限って、自分に対する否定的な考えを一切受け入れない傾向があり、否定されたと感じると相手に対して、極めて攻撃的になることが多く、それは多様性を否定している、という提言をしたいと思います。肯定でなく、否定であっても、誹謗中傷でないなら、認められるべきだと思います。

私も弱小ブログの運営でつまらない意見を言っていますが、やはり否定的な意見もあります。すると、その意見を全く受け付けない人もいるわけです。それでスルーするなら、それはそれでいいし、議論になるなら、生産性があるんですが、感情的になって暴れるので、本当に迷惑なんですよ。

議論しても、自分が気に入らない、論破される、劣勢になると、怒り出して、途中で議論を止めてしまう人も多いです。それは成長がないと思うんですよ。私は議論を途中でやめたことはないし、論破されれば、素直に間違いを認めて来ています。それが多様性だと思うのです。

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へろ
7 years ago

こんにちは シンさん
 このコラムについて、一つだけ言わせてほしいことがあります。
それは、イスラム教の女性が着用がある「ブルカ」についてです。私自身は、ヒジャブ禁止は反対だがブルカ禁止はある程度やむを得ないものがあるのではないか?と思います。それは防犯上の観点からです。確かに、ブルカはイスラム教の女性がする服装の中の一つで、それを侵害することは人権上問題が有るという指摘はごもっともです。
 しかし、それと同等に人は、安全を求める生き物であると言う事も前提に入れておくべきことです。ブルカを着た人間が(害がないイスラム教の女性だとしても)街中をうようよしていることに私自身は恐怖を感じます。何故なら私自身が人間の顔を確認して日々を生きている事が前提にあるという事実が其処にあるからです。コンビニでサングラス・マスク・ヘルメットなどの併用が迷惑であるのも、凶悪犯罪からコンビニを守る防犯上の観点が有るからではないでしょうか?

 私自身は、多様性っていい事だよなって思っています。イスラム教のアルコール飲用禁止とか喜捨とかは素晴らしいと思っています。だけど、同じように、安全を求める気持ちもあるわけです。その気持を考えずに、私がしてきた風習なんだから受けいられられるべきだ!!と叫ばれるのは苦痛きまわりないですし、受け入れられる努力も同様にするべきではないか?とも思うわけです。

 P.S 私自身はヒジャブはとても好きで(カラフルで綺麗なものが多く、見ていて胸がキュンキュンする)いいと思うのですが、ブルカはどうも顔を確認できないせいか、とても恐怖を感じます。正直な話を申し上げますと、イスラム教に対して偏見が有るのではないかと言われたら、否定することは・・・・できません。

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z
7 years ago

以前のブログにお邪魔していた z です。ブログの再開、ありがとうございます。以前のブログ閉鎖の後、Brexit、トランプ大統領誕生時など、もしシンさんのブログが継続されていたらどんなコメントがついただろうか?と考えておりました。

欧州の難民・テロ問題、アメリカの反トランプデモなど見ていると、最近の世の中、「自由 ( Liberty )」と「認可・許可 ( Licence ・ Permission )」と「権利 ( Rights )」が全く混濁してしまっていると思います。「許可」を「権利」へ、「認可」を「自由」へ、自分に都合よく脳内変換してしまっている人が多すぎると感じます。

認可・許可は基本的に「権限を持つ者により、いつでも取り消される可能性のあるもの revocable, precarious 」だと思うので、例えば外国人が滞在許可を取り消されたからといって、(たとえ真っ当な理由がなかったとしても)それを「侵害である」とは言えないと思うのですが...。

プラトンは、民への「認可・許可」の過剰付与が「停滞・麻痺」の原因となり民主制は崩壊する、というようなことを言っていましたね。そうなりつつあるように感じます。世界はこれからどのように動いていくのでしょうか?

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