リクエスト記事です。
日本には本格的にキリスト教が根付くことはなく、戦国時代末期に宣教師が来て、布教したものの、江戸時代には禁教となります。とどめを刺したのが島原の乱、ということになります。
土壌
元々、日本を置いて九州は玄関口であり、西洋文化も九州から入って来ています。その為、九州にキリスタン大名が生まれ、特に島原、天草諸島は領主であった有馬晴信の保護下、布教が進み、徐々に庶民にキリスト教信仰が根付いて行きます。
しかし、有馬晴信は時流に乗れず、失脚して後任者として入って来たのが、松倉重政です。この人は元々は奈良の筒井順慶の家老をしていた家に生まれ、筒井家の移動についていかず、豊臣家の直参となり、関ヶ原の合戦で徳川家康についた為、褒賞として九州に移動しています。
つまり、松倉家は落ちぶれそうなところを当主の機転で持ち直した不安定な領主であり、過去の領主が遺した文化、浪人などが燻っている土地で結果を出そうと、無理をして、領民な大きな負担を強いていたので、領民の忠誠度がどんどん落ちて行ったわけです。
その反感の気持ちがキリスト教と結びつき、幼い頃からカリスマ性のあった益田四郎、という少年を旗頭にして一揆へと移行していくわけで、宗教戦争、という位置付けではないように思います。その意味では一向一揆とは違います。実際、キリスト教とは関係ない飢えた浪人が合戦の指揮をとったようです。
松倉重政としては自分の失政を認めて、取り潰しを食らいたくないので、キリスト教の乱、という報告を幕府にしたようです。キリスト教に対してかなりエグい弾圧をしていただけではなく、かなり無理な内政をしていたちめ、キリスト教と関係なくとも土一揆が起こっていたかもしれません。
勃発
島原半島で天草四郎、と名乗った益田四郎少年が浪人、百姓、漁師などを率いて代官所を襲い、反乱と化すと、すでに戦国を終え、太平の世になっていた江戸は深く捉えることはなく、島原藩で対処できるだろうが、幕府は人材派遣を決めます。
派遣されたのが板倉重昌、という人なんですが、父親は有名な京都所司代、板倉勝重の次男で、徳川家、三河以来譜代の名門の人なのですが、次男で分家しているため、知行はたった一万五千石しかなく、まったくの小大名です。その小身が猛者揃いの九州大名を率いる総大将をすることになったわけですから、幕府は島原の乱を舐めていたんでしょう。
板倉家は三河の人なのでトヨタ風に説明するなら、無能ではないにしろ、トヨタ本体の万年係長みたいな人が業界再編移行に入ってきた外資部品メーカーの社長、役員を取り仕切って下請け救済のプロジェクトを仕切るようなものであり、そんなの無理だろう?という話です。
元々、板倉家は事務方なので、技術は知らない総務係長みたいなものです。板倉重昌の家中はほぼ間違いなく事務方で固められており、父親の板倉勝重から受け継いだ部下は戦国の匂いを残す武将はおらず、反乱軍を制圧するために適した人材はほとんどいなかっただろうと想像します。
事態が好転しないことに痺れを切らした幕府は知恵伊豆として知られる松平信綱を投入します。この人は陪臣である代官の家に生まれ、松平家の養子に行っていた叔父の養子になることで徳川家光の小姓を務めて、のし上がった生え抜きの出世頭みたいな老中です。
トヨタでいうなら、長年、豊田章男さんの側近をしてきた番頭的な役員であり、出向するなら、トヨタ直系の有力子会社の社長を務めるくらいのキレ者がプロジェクトに投入されるわけで、このまま放置しておくとかなりヤバイ、と徳川家光も思ったんでしょう。
板倉重昌はこれを恥じて、松平信綱が到着する前にカタをつけようと、無謀な突撃をして討ち死にし、総大将の首を取った一揆は益々手がつけられなくなって行きます。ここで反乱を収めれば出世は見えていたのに、収集がつかないので、役員が来てしまったら、評価はガタ落ち、処罰を逃れるのは難しいです。
ちなみに、息子の重矩は父親の失態を取り返そうと、後の総攻撃で抜け駆けをして敵武将を討ち取る手柄を上げますが、軍規違反でノーカンどころか、謹慎処分を受けてます。でも、後に老中まで出世してます。若いが、覇気がある人だったのは間違いないのでしょう。
集結
意外にも一揆は団結しており、漠然と戦っても、勝てそうにない為、松平信綱は戦国の生き残りを集めて、本格的に戦争にするしかない、と考えて、前に記事にしたこともある立花宗茂達が呼ばれて、協議をしています。ここで初めて本格的に鎮圧軍レベルまでに膨れ上がり、一揆の本拠地である原城を囲みます。
話し合いの結果、ここまで盛り上がってしまった一揆をゴリ押しで制圧しようとするのは得策ではなく、大群で包囲して、持久戦、心理戦に持ち込もうとしました。具体的にはオランダの支援を得て大砲を撃ったり、天草四郎の母親、姉妹を捕らえて、降伏を勧めてみたり、延々と一揆の士気が落ちるのを待ちます。
幕府側は忍耐強く粘りに粘り、原城に食料が残っていないことを確認すると総攻撃を決めます。鍋島藩が前日に抜け駆け、板倉重矩も負けじと抜け駆けしてます。板倉重矩は父親の失態を取り返そうと、自分が先頭に立って必死になって飛び込んで行ったんだと思います。
一揆は鎮圧され、領主の松倉重政は切腹すら許されず、斬首という極刑になります。ただ、松倉重政が水増しした石高の是正は行われず、実態に見合った収穫ができない為、領主がコロコロ変わり、天領になったりしながら、島原、天草は悲劇の地として長い期間を過ごします。
まとめ
島原の乱は宗教戦争ではなく、悪政による一揆だろうと思います。キリスト教という目新しさはあれど、独立を目指したような蜂起ではなく、行き場のない怒りがキリスト教という器に収まっただけで、キリスト教も島原の乱を殉教だとは見なしてないみたいです。
同じキリスト教を受け皿にした太平天国の乱とも違い、あまりにも酷い政治に庶民が困りに困って、怒りが爆発した、というパターンの日本人にありがちな反抗だと思います。このパターン以外で日本人が立ち上がることはほとんどなく、その後の土一揆も同じです。
リクエストありがとうございました。
やはり、宗教戦争ってのは仮の姿でブラック領主への反乱なんですね。
日本人の抵抗ってのは、過労自殺、最後の手段なんだなと思いました。
ありがとうございます。
言ってみれば、業界再編時に上手く勝ち馬に乗る為に転職してきた部長が部下の工数無視して社長に目標報告して、サービス残業で目標を達成しようとひたすら詰めまくっていたし、その職場で流行っている趣味をする人を迫害して晒し者にしていたら、趣味世界のリーダー格が怒り狂って、周りをまとめ上げ、ストライキに入った、とかいう感じでしょうか?
いかにも日本人的で、耐えられなくなるまで我慢して、一点を越えると暴発する、という感じです。
シン
日本史に疎い自分にはトヨタやDENSOの例えば非常に分かりやすく、記憶に定着しやすく、面白く読めました。
少し訂正しました。
正確に表すなら、九州の外様大名は業界の再編が起こって入ってきた外資部品メーカーみたいなもので、デンソー、アイシンは親藩みたいな存在です。トヨタの係長、板倉重昌が外資のカリスマ社長、立花宗茂などのを取り仕切って、ブラック企業に苦しんだ従業員を組合が先導して反乱を起こして納入不能になっている会社の処理をしにいく、とするなら胃が痛くて耐えられないでしょう。最初からエース級の役員が行くべきだったんでしょうが、幕府はよくある労使間のすれ違いくらいに思っていたと言えると思います。トヨタの係長、板倉重昌はあまりの重圧に耐えられず、自ら組合に乗り込んで説得に当たるも、従業員にガンガン詰められてメンタルがやられて戦線離脱、という感じで、トヨタの役員が他のサプライヤーに納入を任せ、ブラック企業の給与を止め、生活を成り立たないようにし、士気が落ちてきたところを首謀者リーダー格を陥落させて事態を収拾、ブラック企業の経営者は解雇、別の人間を送り込む、という感じでしょうか?
こういう風に現代風にすると、よくある話でもあります。
シン
シンさん
島原の乱のときには、戦国の匂いのするような武将ってのが少なくなっていた、正規軍が弱ったってのがここまで反乱を大きくしたのがありますね。
家光も戦の経験がないのも不安に思ってましたし、伊達政宗や立花宗茂くらいしか戦ができる人はいなかったと聞いたことあります。
譜代なんかは、内政しか担当したことないですしね。
徳川家光の時代になると、大名級はほんの数人しか実戦経験がある人はおらず、小身内政官の板倉重昌が選ばれたのは不向きだったと思います。
ふと思うと、日本企業は大規模ストライキなどの過激な労使闘争を永らく経験しておらず、戦中派まで辿らないと、労使紛争を処理した人はいないですね。もし今、ブラック企業に耐えられなくなり、各地で小規模一揆が多発すると、経営者はどうしていいのかわからず、途方にくれると思います。
シン
真田幸村のドラマや小説を読むと大坂の陣の徳川方に対して、誠の戦を知らないものばかりと言ってましたね。
家康が陣頭指揮を取らなければ、冬の陣でもかなり痛いダメージを受けていただろうと思います。
さらに約30年後に島原の乱なので戦国時代を知っている人はほとんどいなくなってしまったのですよね。
その真田幸村ですら、戦国を生き抜いた人ではなく、父親の昌幸と比べれば、実戦経験に乏しい人です。島原の乱の時は幸村と同じ世代が最後の戦国経験者になりますね。
シン
島原の乱は、日本史上最後の「合戦」です。
以後、幕末の動乱に至るまで200年以上に渡り、
日本は戦のない平和な(停滞とも言う)時代に突入します。
合戦が無くなって約20年が経過した頃、
元より反徳川の気風があった地域で、徳川幕府の圧迫に耐えかねて
反徳川勢力が兵を挙げ、籠城戦にもつれ込んだ末に、
壮絶な落城によって終結した、という点で、
大坂の陣と構図が似ていると思います。
しかし、大坂の陣が歴史好きに人気で、江戸時代の講談から
現代のドラマ・ゲームに至るまで多くのメディアで題材にされているのと比べると、
島原の乱はあまりパッとしません。
大坂の陣は、かつての天下人の遺児・豊臣秀頼と
徳川家康という戦国の生き証人のような総大将、
関ヶ原で敗れ雌伏していた錚々たる武将たちが戦い、
戦国時代の埋火の再燃、というに相応しい合戦でした。
また、豊臣軍が勝つ可能性も低いながらもありました。
これに対し、島原の乱は幕府軍・一揆軍のどちらにも
知名度の高い武将はいません。せいぜい宮本武蔵が幕府軍にいた程度です。
幕府軍は既に官僚化していて、もはや各武将のキャラクターが
際立つ時代ではなくなっていました。
一揆軍の総大将の天草四郎は、
一種のカリスマではあっても武将とは違います。
そして一揆軍に勝ち目は全くなく、
幕府軍にとってのは、勝つか負けるかではなく、
如何に損害を出さずに早く鎮圧するかが課題でした。
また視点を変えて農民反乱として見るなら、これが中国や欧洲であれば、
全国規模の内乱に発展して、徳川幕府に致命的打撃を
与える事態になっていたかもしれません。
しかし、結局は局地的な反乱で終わってしまいました。
戦国時代の埋火の再燃、政権を揺るがす農民反乱、
どちらの面で捉えても中途半端なものだったことが、
大規模で壮絶な合戦であったにも関わらず、
今一つ島原の乱がマイナーな理由かもしれません。
確かに武将のキャラが立ってないし、各地に波及するようなこともなかったので、割と大きな合戦だったのに、興味を持っている人は少ないんでしょうね。
シン
興味深く、すごくわかりやすい記事でした。
総大将の戦場での討死って、殆どないそうで、板倉重昌の討死、知恵伊豆の二つ名を持つ増援部隊、と派手で絵的に美味しいようで、わかりにくく、地味。話題になるのはミステリアスな美少年くらい、という、掴み所のない島原の乱が、血の通ったドラマの様に再現され、感じるものがある、わかりやすい解説でした。
>板倉家は三河の人なのでトヨタ風に説明するなら、無能ではないにしろ、トヨタ本体の万年係長みたいな人が業界再編移行に入ってきた外資部品メーカーの社長、役員を取り仕切って下請け救済のプロジェクトを仕切るようなものであり、そんなの無理だろう?という話です。
最高にわかりやすかったです。現代でもありそうだなあ、と思います。
戦記物としては面白いものではなく、天草四郎に焦点を当てたミステリー物、板倉重昌に焦点を当てたサラリーマン物なら面白いかもしれません。
板倉重昌はなかなかサラリーマン的で、割と有能ではあったんですが、長男が優先されて、割りを食ったところがあり、要職にはつけませんでした。長男は父親と同様に京都所司代になってます。父親もそれを認めていたたようです。重昌からすると、定年直前に巡ってきた大チャンスで、ここで花道を作って老中、若年寄への特進して息子に代替わりしたかったのだと思います。そこまでではないにしろ、大幅加増をして楽隠居したかったでしょうね。実際、松平信綱の方が年下で老中なので、後輩に先を行かれてますから、どでかい成果なしには老中昇進はないです。そして、松平信綱の養父と板倉重昌は家康に仕える側近のして同僚だったので、その養子に救援に来られると知った時は相当ストレスだったと思います。それで、無理な突撃をしたんでしょう。なんか、サラリーマン悲話みたいです。
シン
板倉重昌は、大坂冬の陣で豊臣方と交渉だったり、外堀を埋めさせたりといった実戦向きではなく裏方の仕事が中心の人物のために島原の乱の総大将に相応しくない人物だったと思います。
だとしても幕府の譜代大名に適当な人材がいなくて消去法でやらされた感がありますね。
事務方としては割と優秀だったんだと思いますが、合戦の総大将を出来るほどの器ではなかったのでしょう。と言っても、譜代で誰が出来るの?と言うのはありますね。親藩だと真田幸村を壊滅させた越前家松平忠直が生きてますが、越前家が面倒ですし、譜代なら井伊直孝がいますが、松倉重政と大坂の陣で一緒に戦っているのし、大物すぎますし、両方ともなんとも言えない人選です。奥平松平家の松平忠直がいいかもしれませんが、松平信綱よりも大物なので、いくらなんでもこの人を引っ張り出すとなると、話が大きくなりすぎるかもしれません。
丁度いいくらいの人がいないですね。
シン
シンさん、返信ありがとうございます。
幕府方は事態を軽く捉えていて、関係者に忖度した人事の末に、問題の長期化を招いた構図のようですね。
板倉重昌の父は、京都所司代を務めた大物、板倉勝重ですが、松倉藩主の救済に板倉さんを仕向ける、まさかの倉被りで、この時点で混乱してしまいますw
大人になってから、縁あって、保元の乱について調べてた時期があったんですが、学生の頃は、関係者が多い&似たような名前だらけで、全く覚えられず、試験のためだけに、語呂合わせ(苦笑)で人名を覚えたものでした。
ところが、ちょっと調べてみると、
源氏方:為義(DQNなエピソードが多い、歴戦の勇士) + 為朝(弓の名手、鎮西八郎)
VS 義朝(頼朝・義経の父、戦後処理で父為義を斬首)
藤原方:策士の父+常識人の長男 VS 悪左府(ヤリ手の左大臣、次男)頼長 の親子喧嘩
…等々、途端に「キャラが立って」来るんですよね。特に左大臣頼長がガチ○モだったと知って、戦況にも微妙に影響与えてまして、歴史的事件と言っても同じ人間がやるドタバタ喜劇なんだなあ、と妙に親近感を抱いたものです。(実社会でも、関係者の性癖、Sなのか、Mか、熟女好きなのか、ロリコンかで、展開が違ってくると思いますw)
板倉重昌について、サラリーマンの悲哀、という視点は全くなかったため、新鮮に感じました。歴史モノも、単なる暗記ではなく(さすがに学校では「同性愛者!」とかおおっぴらに教えられないでしょうが、、、)人物にフォーカスするアプローチがあれば、より理解しやすくなるのではないか、と、やりとりの中で思った次第です。
奇人変人列伝みたいなのはみんな好きですし、歴史上の人物に人間味を感じて、初めて興味を持つものです。島原の乱でも、松倉重政のブラック経営ぶり、板倉重昌の不遇、焦り、松平信綱の負けん気、功名心なんかはサラリーマンでもよくある社内政治であり、周りの人間に当てはめて感情移入できますね。
シン
大戦だった割に、今一つ軍記物の素材としては
盛り上がりに欠ける島原の乱に、幕府軍の政治劇の視点を加えると
面白い物語が出来そうですね。具体的には、
『葵徳川三代』の後半部のようなドラマになれば面白いでしょう。
また、一揆軍の側としては、天草四郎の実像に
スポットを当てるのも面白いかもしれません。
一般的に言われる、十字架を捧げ持ち、
和洋折衷の衣装を身に纏った美少年のイメージは、
後世の創作によるもので、史実の天草四郎については、
資料がなく殆ど判っていません。
また、「天草四郎」そのものが、一揆軍の精神的支柱とするために
一揆の首謀者達がでっち上げた、
或いは、集団ヒステリーに陥った一揆農民たちの
妄想と願望が生み出した虚構の存在で、
「本物の天草四郎」はそもそも存在していないという説も有力です。
架空の総大将によって支えられた合戦、
という視点で分析してみるのも興味深いです。
マイナーな事件なので資料を集めるのが大変ではありますが、面白そうな小説になりそうですね。いつか書いてみたいと思います。
シン