目的と手段の取り違えをすることは多いのですが、きちんと自分の中で整理しておかないと、精神崩壊しかねません。
目的
人生の目的とは何なのか?、という質問は一生考え続けるものであり、わかった時には死んでいるでしょう。どんなに成功しても、失敗しても、生きている限りはこの問いから逃れられないでしょう。
自分探しw、とバカにされるのは当たり前のことを殊更に強調するからであり、突発的に旅に出ようが、異文化体験しようが、精神世界を探求しようが、簡単に答えが見つかることではないでしょう。常日頃から考えていくことです。
ともかく、どんなことをして限られた時間を使いたいのか?を考えて、そこに合わせて、その手段を選択していくのか?という根本的なことをおざなりにするから、他人と比べることでしか自分の立ち位置を把握できないのでしょう。
小さな自己満足を繰り返しながら、一定の方向性を決めて、少しずつ達成していくことでしか、「幸せになる」「楽しく過ごす」「満足度を上げる」という当たり前のことは出来ません。過去の自分より良くなっていることに満足しないと無間地獄です。
手段
医者になりたいから医学部に入る、というのは単に手段であり、目的は医者になって、どんな医者になり、どんなことを達成感を持ち、人生を生きていくか?です。であるなら、本当は医学部以外を受験することが本末転倒なんですよね。
偏差値競争に勝つために医学部に入り、他人に凄いと言われたいが為に法曹に興味もないのに司法試験に合格、もっと注目されたくて政治家になり、売春で全てを失った人がいましたけど、典型的な手段が目的になった人生だと思います。
彼は学歴中毒には神と崇められるほどの経歴を手にしたのでしょうが、恋愛至上主義者には鼻で笑われるような恋愛遍歴で、暗い青春を取り戻す為にお金で若い女の子を買っていたのでしょう。それはそれで負け組なのかもしれません。
人間は多面的であり、完璧超人なんて漫画の世界にしかおらず、何かしらに後悔、悩み、コンプを持っているんだろうと思いますね。私も同様で、ここに書かないだけで悩んでいることはあります。
元知事ほど極端でないにしても、大学合格、留学すること、大企業に入ることそのものが目的になってしまうことは多く、そういう人はそこで行き詰まります。だって、そこで何したいか?を一切考えず、他人に評価されることだけを考えて取り組んできたからです。
手段が目的化した時、序列に異常にこだわるようになるのは、自分自身が何をしたいのかわからない為、他人に承認されることでしか満足できなくなるからでしょう。そして、思ったように承認されてない、と思うと、別のことをしだすので、大して承認もされないという悪循環です。
まとめ
四十にして惑わず、と言いますが、それは嘘だと思います。そんな人は凡人ではありません。凡人は死ぬまで惑います。少なくとも私はそうだろうと思います。死ぬ直前まで、あーでもない、こーでもない、と考えながら、より良いことを探すでしょう。
そんなことを延々と綴っているのが、ぬるりと生きるです。こうだ!っと言い切れる時はもう書くことがないだろうと思います。
宗教的な話ですね
昔は神様が生きる意味を与えていたけど
個人が自立するようになり 意味探しをするようになってしまったと
神様は何もしてくれないので、より良く生きるためには、各自もがきながら日々を生きなければならないのでは?
日々の生活を疎かにすると何も身に付かないし、新しいことに挑戦しないとジリ貧になり落伍する。
少なくとも私は未だにもがきながら生きてます。
責任の所在を神に持って行ったり、他人を基準にして行動選択をしていくと楽ですし、そこに疑いを持たないなら幸せだと思います。ただ、それは過去の話であり、今の時代に当てはめるのは難しく、宗教、思想にはまり込んだ人の目つきは一般人とは違います。封建社会で暮らし、疑いもなく家業を継ぎ、家族を守って生活する、ということも珍しいです。そもそも、世の中の動きが早いので、漠然と家業を継ぐことが困難です。
となると、日々苦しみながら、自分と向き合って、より良い明日を模索していくしかないのだと思います。
シン
シンさん
少し重たいかもしれませんが僕は神を信じるので、いまだに神を信じる人は居ますよということでコメントしたくなりました。
僕は世の中に人間の力が及ぶ領域とそうでない領域があると考えています。そうでない領域とは特に、天災/病気/不慮の事故など、個人の力ではどうしようもない領域を指します(学校のクラス分けとか、職場でどの上司に当たるかなどもそうだと思います)。後は完全に自分オリジナルですが、この領域において、神は全能であるがゆえに全ては良きに計らわれている。と考えるようにしています。突然がんを宣告されてもそれは全て良きに計らわれているし、不慮の事故で最愛の人を失っても、それも良きに計らわれていると考えます。
天災/不慮の事故/不幸な病気などはランダムで起こる事象のうちの
一部に過ぎないと言う人もいるかもしませんが、そう考えられるのは、考えを変えるだけの不幸を経験してないからだと思います。
僕は高校生の時にがんになりました。今は、転移がないか定期的に病院で検査をしています。これから先、転移する可能性がないとも限りません。もしそうなった時に、ランダムで片付けられますか?
僕は無理です。
万が一転移が見つかって、ほとんど死が確定してしまったら、これは神の御心なのだと心を決めて死にたいと考えています。
P.S.大学生活が始まって慣れないことも多いですが、新歓、学祭など楽しいことが目白押しです!
「神」というのが特定の宗教の神を指しているのか、努力でどうにもならないことを観念的に指してているのか、で話は違うと思います。
私は前者は一切信じてませんが、後者は言い方の問題だと思います。ほんのちょっとしたキッカケで人生は大きく変わり、良くも悪くも単なる偶然とは言えないことは多いな、と思うので、「流れ」「運気」を掴むために日頃の心がけが重要だとは思います。それを「神様」が見ている、と表現するなら、神はいるんだと思います。
大学生活を楽しんで下さい。
シン
事前に全ての事象を模索した後に実行を移すやり方に、私は馴染めません。 結果、日々向き合う生き方でなく、半ば成り行き(Try and Error)で生きてます。
しかし自身の好み(適性)と市場需要を基に大学時代の選考を選んだ後、社内で中核的なポジションに就ける製品開発職を選びキャリアを始め現在に至ります。 よって基本の軸さえ絞れば、後は成り行きでいいと思います。
その後は成り行きで転職を繰り返しましたが、悪くない着地地点にいます。
妥当な方針の下に日々キャリアを重ねて行けば、「より良い明日」は自然に来ると思います。
神に縋りたい人もいるでしょうが、私はまだ若いと考えているため、縋りたいとは思いたくないです。