じゃあ、信玄上洛

故事

武田信玄は戦国最強、運悪く天下を取れなかったが、何か一つでも運が味方をすれば歴史は変わっていた、というようなことはなく、そもそも上洛の意思がなかった、と私は思います。

行軍

当たり前なんですが、上洛しようとすると、遠征が必要とされます。甲府から京都まで、約400キロ、一日の行軍を20キロとすると、全てが上手く進んでも20日必要となります。実際には、天候不順、小競り合いによる足止めが確実にあるので、片道一ヶ月が最小になります。

上洛しました、朝廷、幕府にご挨拶、さようなら、というのでは意味がないので、都の警護を固め、敵からの侵攻を阻止できるだけの体制を整えてから本国に帰国、という流れになります。すると、往復で半年はザラにかかってしまいます。

そこで問題になるのが農民兵の問題です。彼らは本業農民なので、収穫の終わった11月くらいからしか動けず、田植えの始まる4月には農業に戻る必要があります。これでは、上洛軍に参加できるわけがありません。

事実、新潟から小田原(同様に約400キロ)遠征をしていた上杉謙信が思うように成果が挙げられなかったのも、農民兵が長陣に耐えられず、小田原城包囲に付き合いきれなかったから、という事例もあります。前橋に中継地を設けていましたが、無理でした。

軍法

信玄にしろ、謙信にしろ、農民兵の限界は気づいていたのでしょうが、これを変更するのはある種の革命を起こす必要があり、国が大混乱に陥るため、見て見ないふりをしつつ、本気で取り組まなかったのでしょう。この辺が天下を取った信長との違いです。

中世では、守護職、というのは国人という土豪を統括する立場でしかなく、絶対的権力者ではありません。特に名門、武田家では、その傾向が強く、連合国家の意味合いの強い国家形成をしています。

各国人は一定のルール化において自由に領土運営をしており、その兵役義務も、厳密に決められたものではありません。ある種の暗黙の了解で、A氏の勢力なら、B人くらいは動員しますよね?、という程度のものであり、厳しいものでもありません。

単に信玄が農民兵を志願兵による傭兵化しても、周りが従わなければ、直轄部隊だけでは遠征できないので意味がありませんし、そこまで踏み込んで配下の領土運営に口を挟まるほどの独裁体制を取ってもいませんでした。

この辺が本気で天下を目指していた信長と違いであり、信長は早くから直轄部隊の強化、領土内の独自勢力の否定を進めており、農民兵廃止を推し進めて、遠征、速攻を可能にしてきました。

経済

農民兵のメリットは、出費が少なく、忠誠心が高いことです。本業があり、その土地に対する保証として兵役義務を課しているため、報酬は最低限で構いませんし、嫌だから、と不意に逃亡することも少ないです。残された家族が何されるかわかりませんしね。

一方、志願兵による傭兵は、普段は生産活動は一切せず、訓練以外にやることはありません。農民兵と違い食べるものもないので、雇い主が全てを丸抱えする必要があります。土地に結びついた人たちでもないので、形勢が悪くなれば、簡単に逃亡もします。

何より大きいのが、傭兵を維持し続ける費用負担があまりに大きいことでしょう。負担をし続けるには、領土拡大とともに経済拡大を行い、お金がお金を回す環境にする必要があります。(現代だと、正しくアメリカですね)

信玄は基本的な経済政策以外に何か対策した形跡はなく、物流の円滑化による商売の発展、という観点もあまり意識していなかったようですし、有利な土地に拠点を移すこともしてません。海にアクセス可能な静岡を手にしても、有効活用している形跡もありません。

結局、人の世は変わらず、お金のないところには人は集まらず、根性、真面目さは大事だが、欲に目がくらんだ人間の必死さには負けてしまうということでしょう。(まったくを持ってアメリカですね)

まとめ

武田信玄について記事にしたつもりでしたが、現代社会でも同じだな、というところに落ち着きました。世界を目指す、打って出る、というようなことを掲げる会社は日本にも多くありますが、多くが本気ではないです。大体、アメリカに出店作ってみて、食い物にされて閉鎖ですかね?

本気なら現在のやり方に即したやり方を徹底し、理解できない人たちを、それが功労者であっても斬り捨てる覚悟が必要となります。嫌われるし、恨まれる、名経営者としての名誉を失うかもしれないが、それでもやる覚悟がないとできないことなんでしょうね。

 

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歴史大好き
1 year ago

武田信玄は天才で病気にならずあのまま行けば織田の本軍を殲滅して尾張美濃全域を制圧できたと言い張る人が以前は多かったです。武田幕府が出来て全国統一とか言ってる人ばかりでした。実際の信玄は最後の上洛では満身創痍で戦える状態になくずっと寝たきりです。司馬遼太郎の影響でしょうか?

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いつき
1 year ago

信玄は例え病気にならなかったとしても、どう転んでも天下を取れる器でなかったのは確実です。信玄は今風に言えば、田舎の老舗企業の名物社長みたいなものです。田舎の名士としては申し分ないけれど、それ以上にはなれません。信玄の生涯を3ステージに分けて考えると良く分かります。

1.信濃攻略(1541-53) 

父・信虎を追放し武田家を相続した信玄は、信濃の侵略へ乗り出します。東海は今川、関東は北条と強大な大名がいたので、必然的に領土を拡張するには信濃方面となりました。村上義清にだけは少々手こずったものの、概ね順調に攻略を進めました。10余年で信濃のほぼ全域を獲得し、領土は3倍にもなりました。軍略の才を存分に発揮しています。

2.川中島合戦(1553-64)

信濃北部へ進軍した事で、越後の上杉謙信と戦う事になります。謙信の元には信玄に敗れて逃げてきた信濃の武将が集結し、反信玄連合の様相を呈しました。必然的に衝突は避けられない上に、あと一歩で念願の海を手に入れられる事から、信玄は謙信との戦いに執着し、5回も合戦を繰り広げました。世に名高い川中島合戦です。これは信玄の名将としての名を大いに高めました。しかし、得られた実利は北信濃の僅かな領土のみです。費やした年月と犠牲に対して全く割に合いません。

結果論で言えば、川中島合戦は無駄な戦いでした。しかし、それを避ける道はあったのかと言えば、それも微妙です。立場上、謙信とは絶対に相容れないので和睦は不可能でした。また急速に勢力を拡大した軍事政権の宿命として、合戦に勝ち続けなければ求心力を維持出来ません。この間に、信玄も成果の乏しい対上杉戦に代わる拡張策として、飛騨・美濃・上野の攻略を試みています。しかし、飛騨・美濃は国境が険しい山なので既存の領土との交通が不便で、勢力を伸ばす意味がありません。上野は同盟相手の北条を刺激してしまうので、ここを本気で攻める事は出来ません。消去法的に、上杉を倒す事を目標にせざるを得ない状況でした。

3.上洛? (1564-73)

対上杉戦が泥沼化する一方で、同盟相手だった今川家が弱体化してきます。これに目をつけた信玄は、上杉打倒を諦めて今川領の侵略を考えるようになります。しかし、嫡男・義信をはじめ反対者が多く、家中を二分する問題となりました。大義名分も無く同盟を破棄して侵攻すれば、武田家の信用を失う事になり、長期的にはリスクとなります。しかしこの時期の信玄は、10年に渡る領土拡大の停滞に業を煮やしていたのか、反対する義信と家臣たちをまとめて粛清する暴挙に出ます。この結果、武田家の家臣は信玄を過度に神格化する連中ばかりとなってしまいます。言ってみれば、無謀な事業拡大をしようとする社長が、反対派を解雇して周囲をシンパで固めたような物です。もうワンマン社長の暴走を止める物はありません。

弱体化していた今川家は鎧袖一触で敗れ、信玄は駿河を手にします。しかし、念願の海と、当時は日本有数の豊かな街だった駿府を手に入れた割には、それを有効活用していません。せっかくの駿河を、単に土地が増えただけとしか理解出来ていませんでした。これが、いくら大大名になっても、本質的には山国の農村のボスである信玄の限界と言えます。

駿河を手にした信玄は、上洛を企図して徳川領への侵攻を開始します。三方ヶ原で家康を破り、家康・信長も風前の灯火かと思われた矢先、信玄は無念の病死を遂げます。

この「上洛」がどれほど本気だったのかは不明です。周囲をシンパで固め、老いて判断能力の低下した信玄は、状況を理解せず本気で上洛出来ると思っていたのかも知れないし、現実的には無理なのを分かった上で、兵の士気を挙げる為に景気のいい目標を掲げたのかも知れません。それは信玄の内面の事なので永遠の謎です。

いずれにせよ、信玄が天下を獲るのは無理です。むしろ良い時期に病死したと言えます。駿河侵攻からの度重なる遠征は明らかに国力の限界を超えており、過度の負担を強いていました。このまま家康・信長との戦いを続けたら、例え首尾良く家康・信長を討ち取ったとしても、長期遠征そのものの負担に耐え切れず、間違いなく領国が破綻していたでしょう。そうなる前に死んだのは幸運でした。破滅して恨みを買う役目は、次代の勝頼が引き受ける羽目になりました。

武田家が上洛し京都に駐屯できる体制を整えようとしたら、それは信玄のこれまでのやり方を根本的に否定する事になってしまい、もはや信玄ではありません。一方の信長は、旧体制を破壊しまくったので多方面から恨みを買いました。信長の急進的なやり方について行けない連中にとってみれば、「信玄公が生きていれば旧体制を守ったまま天下統一が出来たかも知れない」と叶わぬ甘い夢を見させてくれる存在となりました。

1+
歴史大好き
Reply to  シン
1 year ago

私も昔信長の野望をやりながら武田の美濃攻略について疑問に思っていました。信長の野望の世界では信玄を使って美濃を攻略してました。現実世界でも川中島の合戦をするよりはこちらのルートの方がうまくいきそうな感じはします。

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いつき
Reply to  シン
1 year ago

中山道沿いに美濃へ進出するというのは面白いifですね。検討してみましょう。

まず時期は、1562-67の間でなければいけません。今川義元が健在の間は、美濃を攻略すれば今川の領国を半円状に包囲する形になりますから、義元が許すはずがありません。義元が消え、清洲同盟が結ばれて松平元康が今川から離反し、今川家が弱体化している事が条件です。逆に信長が美濃を制した後でも駄目です。肥沃な濃尾平野を信長が手に入れたら、どう転んでも経済力で勝ち目が無くなります。

ですので、信玄が美濃攻略に取り掛かるとすれば、4度目の川中島合戦の後となります。10年も多大な犠牲を払って北信濃攻略をしてきたのに今更諦めるのか、という家臣・国衆たちに方針転換を納得させる必要があります。史実では1565年に反対派の義信らを粛清し、1568年に駿河に侵攻しています。この時点では信長が上洛してしまっているので手遅れです。

ここで方針転換の周知は巧くいったと仮定します。今川家は攻め取るのではなく、困窮しているので援助するとの名目で傀儡化していきます。これなら義信らの反発もないでしょう。三国同盟も破綻しないので、後方の憂いはありません。1562年か63年に、満を持して伊那路から中山道を美濃へ進軍します。斎藤家は義龍は既に亡く、幼君・龍興の元で弱体化しています。

ここで問題となるのが兵站です。地形図を見ると分かりますが、諏訪から飯田までは盆地が続いているので、飯田を前線基地にするというシン様の案は非常に優れていると思います。しかし、飯田~中津川~恵那~多治見~岐阜への道も結構長く険しいです。相手は龍興なので、一時的に軍勢を送って破るのは容易でも、岐阜の支配が安定するまでの間、抑えの軍勢を常駐させられるかが問題になります。そのためには、シン様ご指摘のように飯田が物資の集積地として十分に機能している必要があります。飯田は本拠の甲府からは赤石山脈を北に迂回して諏訪を経由しなければならないのでかなり遠いです。街道の整備も必要になるでしょう。1562年に美濃攻略を始めたとして、時間は5年しかありません。信長に先に岐阜を抑えられてしまったらアウトです。シン様ご指摘のように、信玄自ら本拠を飯田、まで前進させる覚悟が無いと無理でしょう。いくら領土を拡げても、あくまで甲斐のオヤジである信玄にそれが出来るかどうか、です。

数々の困難を乗り越え美濃を支配下に置いたとしても、本拠が飯田のままでは毎回山越えをしないと西への進出が出来ません。やはり信長のように、本拠は岐阜へ移動させる必要があります。一応は甲斐に近い文化圏である南信濃ならともかく、全くの異文化圏である美濃へ移るとなると、家臣団の説得は容易ではありません。武田家の団結は、同じ山国の民だからこそ保たれていた面があります。平野の商業地帯へ移る事にどれだけの抵抗があるか、容易に想像がつきます。

信玄による美濃攻略を考察してみましたが、一時的に美濃へ進軍して岐阜を落とすことは何とか可能そうですが、美濃を領国へ組み込んで、更に上洛を進めるとなると、次々に困難に直面します。信玄のキャラクターを根本的に変えないといけなくなります。そうなるとそれは最早信玄ではなく、「甲斐出身の信長」です。やはり信玄は田舎の名物親父であって、それ故に信長とはまた違った魅力がり、同時に田舎の大親分以上にはなれない宿命なのでしょう。

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歴史大好き
Reply to  シン
1 year ago

最近の信長の漫画でも信玄が出陣したという報せを受けた信長が万に一つも自分に勝ち目はないと絶望するシーンがありました。未だに信玄無敵説を唱え3か月で織田の本軍を殲滅するような漫画を描き続けてます。最近ネットの世界では信玄最強伝説が弱くなったのに漫画の世界はこんな感じです。

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いつき
Reply to  シン
1 year ago

漫画なので話を面白くするために脚色・誇張は当然でしょう。しかし、確率は低いものの、信玄に敗れて織田家が壊滅する可能性はあったと思います。

信長の戦略は、家康を盾に時間稼ぎをして武田の兵站切れを待つ事でした。史実では三方ヶ原合戦の後、信玄の病状が悪化した為に武田軍は撤退しています。ここで信玄が健康で、撤退しなかったと仮定します。

再び家康と信玄が野戦で戦った場合、家康が討ち取られる可能性は十分にあります。家康が籠城戦を決め込んだ場合は、領内で武田軍は間違いなく略奪を行います。既に武田軍の兵站は限界に達しており、現地で略奪して賄わなければなりません。

家康が討ち取られるか、領内を焦土にされるか、いずれにせよ徳川家は壊滅状態になります。こうなれば、信長は10年も尽くしてくれた同盟相手を見殺しにした事になり、家中で動揺が広がって、離反者が続出する可能性が十分にあります。持久戦を続けられれば間違いなく信長の勝ちですが、内部崩壊で持久戦が続けられなくなる訳です。

しかし、それで上洛を果たしたとしても、武田家には京都に軍勢を駐屯させる能力がありません。京都を維持するなら、美濃で徴発した兵を戦力の中枢に加え、半信長同盟の浅井や朝倉の兵を傘下に加えて巧く動かさなくてはなりません。甲斐から遠征して来た農民兵をいつまでも京都に置いておくのは不可能です。しかし信玄にはそれが出来ません。

武田家は今でいえば、地元の体育会系出身者で固めた老舗企業みたいなものです。気心の知れた者同士だから、団結力や忠誠心は強いし、阿吽の呼吸で協力し、厳しい条件の仕事でも一生懸命にやり遂げます。それが武田家の強味でした。しかしそれ故に排他的でよそ者が入り込む余地が無く、地元を離れての発展が出来ません。必死に頑張って東京へ進出し、子会社をいくつも従えたのに、独自の社内ルールや付き合いのしがらみが多くて、東京で採用した社員や子会社には重要な仕事を任せず、いつまでも地元出身の古参社員が中枢にいるような状態です。これでは全国区の企業にはなれません。実際、西上作戦の兵は甲斐から進発し、南信濃を経由して遠江へ向かっています。せっかく先進地域の駿河を手に入れたのなら、そこから兵や物資を徴発しても良さそうなのに、それをしていません。

結局、武田家は田舎者ゆえに強く、田舎を離れたらその強味が失われてしまうので、信長を倒す事は出来ても、やはり天下は獲れない宿命なのです。

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歴史大好き
Reply to  シン
1 year ago

次は勝頼もやってみたいですね。その漫画では勝頼は悲運の名将ということになっていてかっこいいのですが、流石にそれはやりすぎで凡将なはずだと思ってます。長篠の戦いはあまりに負けすぎですし高天神城は徳川が信玄にやられた直後で手柄にならない気がします。

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いつき
Reply to  シン
1 year ago

勝頼の失敗は長篠で敗れた事ではなく、御館の乱で上杉景勝側に回ってしまった事にあると思います。

長篠合戦については、信玄のせいで信長とは全面対決せざるを得ない状況に追い込まれていましたし、経済力の差で武田に勝ち目はなく、あそこで敗れたのは勝頼の采配の問題ではなく、信玄の後先考えない無謀な拡大政策の帰結と言えます。

問題は、御館の乱の際になぜか北条を裏切って景勝支援に回ってしまった事です。この甲越同盟の締結には、直江兼続が暗躍していたと言われています。ここで兼続の口車と贈与に目が眩んで景勝側に回ってしまった事が致命的な失策でした。これによって武田は北条を敵に回す羽目になってしまい、その北条は「敵の敵は味方」で織田と同盟してしまい、周囲は上杉以外は敵だらけになってしまいました。

ここで景勝が景虎を支援していれば、武田・上杉(実質的には北条の傀儡)・北条による三国連合となり、流石の信長も容易には滅ぼせなくなったのではと思います。時代の流れで、いずれは武田は信長か秀吉に屈服せざるを得なくなるのは必然ですが、あれほどまでに無残な滅亡は無かったのでは、と思います。

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くろねこ
1 year ago

本文とは関係の無い感想になりますが、
無能とされた今川氏真が徳川幕府の高家として天寿を全うしたのを考えると
能力の高低と本人の幸福度の高低には余り関係が無いのかも知れませんね。

それとは別に、いわゆる偉人伝だとか英雄伝説ってのは凡人にとっては麻薬のようなもので
おとぎ話程度の娯楽小説にとどめておいた方が身分相応だな、と思いました。

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