破天荒、という故事は誤用が本当に多いのです。
意味
誰もなし得なかったことを成す、成した人というのが本来の意味ですが、ハチャメチャな性格、行動をする人に対して使う人が多いですね。なんで、この誤用が広まったのかはわかりません。
恐らく従来の常識を破る結果を出す人というところから常識外れ、アウトサイダー的な人を連想させ、メチャクチャする人を破天荒、と呼ぶ人が増えてしまったのではないでしょうか?
言葉は変化していくので、意味が変わっても良いと思いますが、故事を含んだものは変わるべきではないと思います。重複をじゅうふくと読んでも良いと思いますが、破天荒の意味が違うのは残念だと思います。
中国、唐の時代に片田舎である荊州から初めて科挙合格者が出たことで、破天荒、つまり荒れた、文化のない土地から人物と呼べる秀才が出てきた、という故事から常識を破る結果を出すことを破天荒という言葉が使われるようになりました。
私が調べた限りでは、その科挙合格者の名前は伝わりますが、その後の仕事で実績は伝わっていないので、働きだしてから官僚なり、政治家としては大きなことを何も成せなかったのだと思われます。
ガリ勉
この科挙から伝わる習慣からなのか、単に試験に合格すること自体を評価する習慣が東アジアには存在します。本家中国のみならず、日本、台湾、韓国、ベトナム、香港、シンガポールがその例です。
仕事上で特に何も刮目するような実績がないのに、あの人はトップスクール出身だから、とか、俺はトップスクール出ているんだ、とか言いたがる人が欧米人に比べ明らかに多いです。
では、欧米人にら元からガリ勉の習慣がなかったのか?というわけではありません。ドイツの作家、ヘルマンヘッセは車輪の下で、ガリ勉に苦しむ子供の苦悩を書いています。教会におけるラテン語、ギリシャ語の暗記がその勉強法です。これは儒教の暗記、コーランの暗記など世界共通でしょう。
その後、欧米人は暗記、ガリ勉を捨てています。イギリス、そしてアメリカが世界のリーダーとして台頭する頃には実践主義が当たり前になってきて、試験の点数が取れることだけなんて、評価しなくなったんですね。
その意味では未だに単なるガリ勉、試験に通過したことだけを評価していることが周回遅れの後進国的発想であり、新しいものを生み出すだけの文化などない、ということと同意義なのかもしれませんね。
成す
特にこれからの時代は0から1を産み出す能力こそが評価の対象だと思います。ググって数秒だ答えの出ることを完璧に覚えていても、それそのものが何かを産むわけではなく、そこからの試行錯誤が何かを産むプロセスになります。
実際、私も破天荒を成した人には興味があります。どんな小さなことでも良いのですが、今まで誰もやったことがなかったとか、やれなかったことをやった人はそれ相応に勇気と忍耐力を持っているからです。
ひたすら暗記して正確にアウトプットすることも忍耐力が必要ですが、何が正解なのかわからない、いつ成果が出るのかもわからない中で、手探りで進み続ける忍耐力とは似て非なるものだと思いますね。
だから、アメリカ社会が何かに対して突き抜けた興味を持ち努力をする人なのか、リア充競走の勝者を評価するのだろうな、と思います。単独で突破出来るのは特定の興味に対して奇人変人であり、輪によって集団突破するのはリア充です。
まとめ
日本人は破天荒の意味を知るべきです。誤用は論外ですが、破天荒を成した劉蛻は、その後に何も成せなかった、という故事まで理解すらと良いと思います。たかが、試験を突破したことを大騒ぎしても仕方ないと思いますね。
とんでもないことをしなくても良いので、自分の中の殻を破って、自分の中の破天荒をいくつか出来ると、人生は豊かになるんじゃないかな?と思います。出来なかったことが出来るようになる、というのは大きな喜びであり、自信であり、成功体験です。
破天荒といえば大谷さんでしょう。
「0から1を産み出すこと」の重要性と難しさについて同意します。しかし残念なことに「0から1を産み出すこと」より「1を10にすること」を評価する場合がしばしばあるように思います。きっかけを作ることよりも、それを磨き上げてゴールに押し込むことが偉い、ということのようです。「1を10にすること」はトレーニング次第でできるようになるものだと思います。またリスクも少ないです。「0から1を産み出すこと」はリスクを取って忍耐強く孤独と戦う必要があります。このことを正しく評価するべきだと思います。
私は、0-1 1-10は同程度の価値があると思います。0を1にするのも大変ですが、1を10にするのも大変です。金銭的な評価が1-10の方が高いのは当然です。それだけの資金繰りをして多数の人を巻き込んで採算化しているからです。0-1は1人の天才で成し遂げられるかも知れませんが、1-10は大勢を巻き込むだけの渦が必要です。その渦がお金を産みます。
最近は0-10をする人も増えています。コロナワクチンで知られるbiontechオーナーのように自らの成果を持って事業化して上場まで持っていくやり方です。
0-1だけを評価すると、美味しいところを全部持っていかれる危険思想です。biontechオーナーが研究結果に満足してファイザーに売って小銭にしていたら成果はファイザーの総取りになったでしょう。
シン
1-10の重要性と難しさについて、また0-1偏重の危険性についてよく理解できました。0-1も1-10もどちらも重要で難しいと考え直しているところです。
しかし、今後の日本の経済規模が縮小していくならば、1-10よりも0-1に重点を置くべきと思います。1-10の仕事は方向性がある程度決まっているので、競争が激しくなりがちで、リソースの多い者が勝者となります。0-1に重点を置くことで、先回りすることができ0-10の仕事が生まれやすくなるのではと思います。
確かに1-10は市場が大きく資金力に勝る米中の方が有利であり、ニッチ0-1を磨くことで段階的に0-10に持っていき、世界市場で勝ち残るという手法が少子化による市場規模の縮小を迎える日本には合っているのかも知れませんね。
シン