何でも本人の資質なりの所に収束してくるのですが、人は問題を自分以外のところに求めるものです。極端なケースを除けば、問題は自分にあります。
家庭
生まれた家庭が悲惨すぎた、逆に至れり尽くせりだった、という場合もありますが、平均的な家庭に産まれていれば、それ以上のことを望んでも仕方ないと思います。
実際、同じ家庭で育った兄弟姉妹でも全く違う人生を歩むことの方が多いですし、一卵性双生児は事情で別々に育っても似たような人生を歩むそうなので、原因は自分にあると言うことでしょう。
生まれ持った能力がモノを言うわけで、その次に親のコネ、財力がモノを言うわけです。親が突き抜けた存在でもなければ、生まれ持った能力がほぼ全てであり、家庭内教育にできることは多くありません。
平凡な親が子供に与えられることは生活習慣くらいのものでしょう。もちろん、正しい生活習慣は重要ですが、それだけで何かを為せるわけではありません。
学校
校風によって楽しい学生生活が送れるのか?ということはあると思いますし、できるだけ自分の性格に合う学校は選ぶべきだと思います。
ただ、学校のランクで人生が決まるようなことはないと思いますね。ランクが高い学歴さえ手にしていれば、何もかもが変わるようなことはないでしょう。
何年か前に採点ミスで不合格になってしまった学生の記事を書きました。私はそんなことは珍しいことではないし、本人がその学校にこだわっているなら浪人してでも入っただろうし、こだわってないから別の学校に入ったわけで、些細なことだろう?と記しました。
人生を狂わされて可哀想だと思わないのか!とコメントする人がいましたが、全く理解できませんでした。その手の些細な運命の分かれ目は人生に絶えないものであり、大勢に影響はないと思います。
そもそも採点内容が公表されることが例外です。海外大学では一切公表されないのが一般的ですし、就職の採用面接も不採用の理由なんて教えてくれないでしょう?何となくで決まるものですよ。そんなことは理不尽でもなんでもありません。
ランクの高い学校を出ていれば、一目置かれるので有利だとは思いますが、成果が出さなきゃ例外なくバカにされます。成果を出さなくても偉そうにしてられる二世とかでもなきゃ、ハッタリだけでやってけないでしょうよ。
仕事
就職の時点で不公平だし、些細な巡り合わせでスタートします。これも本人の資質なりの場所に収束していくと思います。一度入れば、あとはしがみつき続ければ良い、ということはもはやないでしょう。
仮に割りは良いが、自分の資質に全く合わないことにしがみついていても評価なんかされないし、人生の浪費を続けていくだけです。何十年も特にやりがいを感じないことをしていく方が大損だと思います。
低給で有能な人は長く勤めないし、理不尽に低い待遇で勤めているなら、その性根こそが無能の証なんでしょう。買い叩かれても疑問に覚えないくらい鈍感だから、ずっとそのままなんでしょう
仮に最終面接で一人の面接官に徹底的に攻撃されて不採用になろうが、お局様に徹底攻撃されて退職させられようが、能力があれば、他で評価されるでしょうよ。
資質があり、行動をしていれば、何かしらのチャンスはあるものです。運が悪い、というのは自分のせいである側面もあります。真剣に考えてないから不運を避けられない場合も多くあります。
スタートがどうあれ、不意の不運があったりしても、結局は本人の能力なりの所にしか行きつかないものです。本当に運だけで勝ち上がるなら、その強運こそが生まれ持った才能なんでしょう。
まとめ
やたらと自分の不遇を他人、環境、教育に責任転嫁する人は多いですが、ほとんどの場合、本人の資質に収束しているだけだと思います。環境を変えたいなら自分が変わる必要があります。そして、何を変えなければならないか?を知っているのは自分だけです。
産まれた家庭は変えられないから、仕事が上手くいかないと、学歴に責任転嫁する人は多く、フワフワした理由で学校に通い出したり、需給の怪しい独占業務もない資格の勉強をしだす人は多いですが、海外大学院で修士を取れば、資格さえ取得すれば、人生全てを変えられる、というような夢物語はありえませんよ。自分が変わらなきゃ、同じ所で躓きます。
私自身は忍耐力が足らないために成し遂げられなかったことがほとんどであり、我慢できなきゃ、他の何が変わっても同じ結果だっただろうと思います。若くはないですが、死ぬまで修行だと考えて、忍耐力を鍛えようと取り組んでいます。
こんばんわ。現在の世界的なコロナ禍の状況化にも関わらず社命により某国に入国し現在隔離期間という名のもとの軟禁状態にあるものです。以前何度かここに投降したこともありますが、この状況が社内においてレアなものですから身バレを考慮して名前を変えていることをお許しください。
軟禁状態にあるもののITの進化によりテレワークができてしまうのが良くも悪くもありますが、そのおかげでここにも書き込みができることを感謝しなければなりません。テレワークで仕事をしつつも、やはり部屋から一歩も出ることが許されない特殊状況下においては色々と考えてしまいます。やはり一番身近にいる人間、「自分」についてです。私も大分いい歳になり、ようやくここ最近物事の道理というか所謂「理」が分かってきた気がします。シンさんのおっしゃることもよく理解できます。自分の関わる全ての物事に自分自身が責任を負うという意味かと思います。確かに周りを見ると自分以外の何かに責任を押し付け、原因は自分でないと言い張る人は一定数存在します。そういう人間に限って何度も何度もトラブル・イザコザを起こします。そう何回もそのような状況になるのはお前が原因じゃないの?何故気づかない?と思ったことは一度や2度ではありません。人間は感情の生き物です。一時的に怒り、焦り、不安の感情に押しつぶされることもあるかとは思います。己のアイデンティティ、プライドを保つために一時は「他」に責任転嫁することも良いでしょう。でも、頭を冷やして整理したときに己の愚かさを認めたいものです。ダメな自分を認めてこそ進歩があるものと信じています。いつものことですが段々何を書いているかが分からなくなってきました。まだまだ軟禁状態は続きますのでまたお邪魔させていただきます。
隔離とは大変ですが、骨休めだと思ってゆっくりしてください。ぬるりと生きるを読み直してコメントして下さると過去記事からの気づきがあるかもしれません。
>自分の関わる全ての物事に自分自身が責任を負うという意味かと思います。
結果に行き着く理由は自己責任が半分、生まれ持った能力が半分だな、と思っています。可能性の高いことを選ぶ、辛抱強く取り組むとか、順序良く進める、ということで結果を変えられるのは半分でしかなく、残りの半分は生まれ持ったもので変えようがない、というふうに思います。だから、生まれ持ったものは受け入れ、その上でできることを探すのが良いと考えます。
何でもかんでも努力、根性でやり遂げられる、というような考えは違うと思います、与えられたカードの中で最善の手を探る努力だけが人間に与えられているのではないでしょうか?
シン