「諦める力」という本を読みました。為末大さんが書いた本で、なかなかの良書だと思いました。勘違いされやすい点をきちんと纏められていると思います。
前提
日本ではタブーとされていますが、世の中は平等ではなく、生まれた時点で大きな差がついています。それは家庭の持つ財力、ノウハウ、視野の広さなどだけでなく、そもそも生まれ持った能力も違うということです。なので、努力さえすれば、必ず夢は叶う、というような詭弁を信じるべきではない、と言い切っています。
前提として不平等ではあるが、誰かが決めたランキングに乗っかる必要もなく、自分自身と向き合った上で、自分にとって有利なことを選び取り組んでいくべきだとしています。例えば、どう考えても得意でない勉強を一生懸命しても、ほとんど効果はないが、特定のスポーツで実績を残せば、飯を食っていけることだってあるということです。
日本の教育現場でこの現実を突きつけることはほとんどなく、「やればできる」「努力が足らない」と、無理、無駄なことをやらせて時間、労力を使わせることが極めて多いです。その点において、欧米では、人は違うものと割り切った上で、教育がなされ、社会が形成されているのは合理的だとしています。
全力
何かに絞った上で、全力で取り組んでみることの重要性を説いています。それが飯の種にならなくとも、全力で取り組み、苦しみ、限界を感じるところまでやった経験は価値のあるものだとしています。それは、自分自身をよく知ることになるため、他の道に行くときにも使えるノウハウだからです。
つまり、為末さんが言う「諦める力」とは、ほとんど努力もしていないのに、コロコロと取り組むことを変えることを推奨しているわけではないです。私も同じことを思います。どう頑張っても成果のでないことをひたすらやるのは危険です。野垂れ死に覚悟でやるなら自由ですが、そこまで好きなことを持ってる方が少ないでしょう。かと言って、ちょろっとやって諦めてことから得るものはありません。
親、教員、上司などが、どう言おうが、自分のことは自分にしかわからないし、自分の他に自分の人生に責任を取れる人はいません。無責任な他人に言うことなど、基本的に無視しても良いでしょう。自分の限界を客観的に理解した上で、指導してくれると考える人以外の言うことは聞く必要などないのです。
プランB
目的を見失わないなら手段は変えても良い、と割り切るべきでしょう。オリンピックでメダルを取る、と言うことを目標としているなら100メートルでなく、400メートルハードルを選ぶのは、合理的だとしています。もちろん、花形の100メートルを捨てるのは辛いが、そこに将来性がないなら、それ以上やっても無駄です。
今までやってきたことの延長線上にあることの中で、可能性がより高い方向に変化していくのは、負けではないし、ブレてもいない、と言う考え方です。これは全くその通りだと思います。何事も全く何もないところから始めるのにはすごく労力が必要です。今までやってきたことが生きることをすべきでしょう。
最初からプランBばかり考えて全力を尽くさないければ、何やっても中途半端になってしまいますが、ある限界が見えた時点で、プランBは考えていくべきでしょう。思い通りの人生になる人の方が珍しいです。ある地点までは上手くいったが、勝負どころでチャンスがなかった、活かせなかった、と言う方が圧倒的に多いです。
単なるサラリーマンですら、三十過ぎにはある程度見えてくるわけです。35になれば、ほぼ限界は見えた、と思う人の方が圧倒的に多いでしょう。その時にプランBを素早く設定して、上手く状況を付き合っていく方法で目的を達成すべきでしょう。そもそもの目的に立ち返るべきです。
まとめ
自分自身に対して、相談を受けたときに必ず始めるのが、そもそもの目的はなんですか?と言うところです。自分自身が目標とする生き方はなんでしょうか?と言うところを見失っているから悩んでいるのでしょう。それが、達成できるのはA社あったり、B業界だったり、Cと言う生き方だったりしますが、目標は同じはずです。
そもそもの前提として無理がないのか?全力でやった結果、何かを得て限界を感じたのか?限界を感じたならプランBはその延長線上にあるのか?と言う問いをしていくと、情報が整理されて落ち着いてくると思います。闇雲に時間、お金を費やしても成果など出ません。
日本社会は根性主義を正義としたり、自分でなく世間体を重視する傾向がなかなか是正されません。どう考えても向いていないことを親が強要していたり、他人の評価ばかりを気にして自分を見失うことが非常に多いと感じます。自分の人生に責任を取れるのは自分しかない、と言う大前提の元に、何ができて、何ができないのか、今、どうすべきなのか、を適切に判断すべきでしょう。
日本はみな平等だと思っているので、周りがやっていることを自分ができない=不幸、だと思う節があります。
例えば結婚式です。
「結婚式ってちゃんとした親、お金、呼べる友達、挨拶してくれる上司、紹介しても恥ずかしくない仕事。それらが全て揃ってやっとできるってハードル高すぎない?」という発言をどこかで読みました。
これを読んで自分は「普通に努力して生きてきた人にはハードルは低くないけど、何の努力もしてないあなたには難しいでしょう。努力した人だけのご褒美です。」と言いそうになりました(言ってないです)
そういう人は、諦めたら楽になるんでしょうね。周りと同じを望むから不幸を感じる。
シンさんの記事はもっとレベルの高いところを説明しているのだと思いますが、そういった努力ができない人もいるので、その人たちへも諦めが肝心ということを伝えたかったのです。別に不幸ではないのです、と。
レベルは関係なく誰の人生にも起こることだと思います。仮に「まっとうな結婚式」を望んでいたとして、それができる見込みがない、とすると、さっさと諦めて目的に立ちかえるべきでしょう。結婚式は手段で、目的ではありません。目的が「幸せな結婚」なら、「まっとうな結婚式」は必須ではないので、簡単な結婚式なり、入籍だけで良い、と言ってくれる人を探せば良い、ということだと思います。
無理して「まっとうな結婚式」をする為に借金するなり、親しくもない上司、友人を借り出して、なんとか形にする意味なんてないと思いますね。それで、すぐに離婚していたら、完全に徒労です。無理をさせる人より、自分の現状を理解してくれる人と結婚すべきでしょう。
シン
凄く示唆に富んだ記事です。
私は学生時代水泳部だったのですが、同じく100mは種目として花形で、選りすぐりエリートが出ていました。私みたいな凡人が入賞するには400mや、800mなどの人気が薄れてくる長距離を狙って、ひたすらに練習するしかありませんでした。
いまは、見るも無残な体つきになってしまったので、競泳の場では競争できないですが、ビジネスの場で如何に結果を出すかも似ていると思いました。学生の時と違うのは、自分に残されたリソース(時間とお金)を認識し、選択と集中しかないと思っています。
どうしても100mにこだわる、というのも良いとは思いますが、入賞はできないことを前提にして、趣味的にやるのか、ほかの可能性を捨ててごく小さな可能性を信じ続ける、という覚悟が必要になります。
サラリーマンも全く同じことで、35才くらいで役員まで上がれる可能性があるのか、ないのか、はハッキリします。その上で、ほぼ可能性ゼロでも役員を諦めずに目指すのか、何かしらのニッチ専門家として居場所を作るのか、単にしがみつくのか、そもそもサラリーマンという生き方をやめるのか、と色んな選択肢があります。その中の一つを意識して選ばないと、上手くいかないことに精神を蝕んできたり、生活が困窮してきますね。
シン