じゃあ、脱獄-2

破獄を読んだので第二弾を書きたいと思います。

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吉村昭さんの小説を始めて読みましたが、非常に緻密で丁寧な書き方をしており、記録文学と言うか、ドキュメンタリーに近いような小説を書く人で、文体も極めて無駄のないスッキリしたものだと思いました。でも、私はこういう書き方をする人はさほど好きではなく、もっと泥にまみれたような書き方をするほうが好きですね。

破獄は看守側からみた白鳥由栄さん、という小説であり、看守側を緻密に取材し、当時の時代背景、関連する出来事も交えてその時の状況を読者にイメージさせる手法をとっています。だから、これは怪物白鳥に立ち向かう一般人たちという物語です。

看守の見解からすると、白鳥さんだけでなく、受刑者全般に対して出来るだけの温情をかけており、戦時下においては貴重な食料を一般の配給以上に出して、出来るだけ温情をかけて暴動を避け、仕事に対して最善を尽くした、というスタンスです。(白鳥さん、他の受刑者の立場からすると違うかもしれませんが。)

破獄を読む前、私は白鳥さんが主義主張にしたがって脱獄をした思想犯みたいな存在で、生い立ちによって正規教育をきちんと受けていないにしろ、理知的な知識人であり、犯罪はやむを得ずやっただけで、誰も傷つけない、という美学を持っていた人だと想像していたのですが、そうでもなさそうです。

読後の感想としては白鳥さんはもっと動物的だと思います。動物は必要以上の餌をとらない、というレベルのことで、そこに美学があるわけでもなく、監獄が嫌だから飛び出して、しばらく野生で好き勝手する。それに飽きてくると戻ってくる、という究極の自由人みたいです。出所後も正社員になり他人と必要以上に馴れ合うのを嫌がり、日雇いの仕事を好んだそうです。

さて、私は破獄を白鳥由栄超人伝説、というものではなく、白鳥さんと看守の長きに渡る心理戦だという読み方をしたので、その流れで記事にしたいと思います。

威圧

当然ですけど、犯罪者集団を抑えていかなければ成らない看守は威圧的に受刑者に振舞います。あとは程度の問題であり、受刑者に対してどちらかというと同情的に振舞う人もいれば、毅然と犯罪者として厳しく接する、という看守もいますが、当たり前ですが、対等の関係ではありません。

言うなれば、親子みたいなものでガチガチの管理教育で自分の思うように子供を育てる人もいれば、子供にある程度の自主性を持たせて甘く育てる人もいて、どちらがいいかは判断が難しいでしょう。子供のタイプによるものであり、相性なんだろうと思います。

白鳥さんは超人のようなフィジカルを持ち、動物のような知恵とメンタルを持つので、並みの看守が恐怖によって威圧してこようがなんとも思わないわけです。ありとあらゆる懲罰を加えて威圧するんですが、それでも上に立てないのです。何もさせない、自由を奪う、とか一般受刑者ならメンタル崩壊しそうなことも耐えてしまうのです。

そうするうちに白鳥さんはびっくりするような脱獄方法を編み出して、平然と出て行ってしまうのですから、どんな懲罰を加えても威圧することが出来ず、どれほど脱獄阻止に努力しても、上下関係が成立しません。白鳥さんからすれば、看守なんてバカどもであり、無能なくせに偉そうにしてくるゴミクズとくらいにしか思わないわけです。

屈服

脱獄を成功させた実績があるので、お前の当直日に脱獄してやろうかw、というプレッシャーをかけたり、手錠をお手製の鍵で勝手にあけたり、腕力で壊したりするので看守が徐々に白鳥さんの制御に諦めてくるわけです。

4回もの脱獄が出来たのは布団をかぶって寝る癖をあの手この手の心理戦で暗黙のうちに認めさせてきたからです。白鳥さんはあれを認めさせると、これも認めさせる、と時間の経過ともになし崩しにして自分の好き勝手なやり方を黙認、成立させてしまう心理戦が極めて得意です。

そうなってくると、白鳥さん、看守の関係は逆転してきて、看守の方が白鳥さんに気を使って自分の当直日に脱獄しないことを祈りながら、触らぬ神にたたりなし、というスタンスに変わってきます。屈服してしまうんですね。

どんなこともそうですが、実績、実力のある人間が脅しをかけると、立場がどうあれ負けてしまうわけで「人間として負ける」という展開になってしまうんですね。だから、立場、序列に拘るよりも、裸一貫の自分で他者を圧倒できるようなフィジカル、メンタルを鍛えるのが努力の基本なのでしょう。

懐柔

超人白鳥さんにも弱点があり、養子として育っている為、優しくしてくれる人にホロリと来て、心が折れることがあります。実際、自分に対して同情的だった看守の家に行って自首してもいますし、当時貴重だったタバコを吸わせてくれて、人格を尊重した警察に自首もしています。

最終的に看守側の最終手段は情に訴えかけて懐柔していくことで、逃げる気を失わせるくらい気を使ってやり、猜疑心を徐々に失わせ、自分を脱獄させない為の擬態だということはわかっていても、感謝させる方法を取ったわけです。

三国志、孔明の南征は「心を攻める」という手法がとられましたが、動物的な敵を本当の意味で篭絡させたければ、心を攻める他になく、武力で圧迫して、形だけの降伏がされても、時間とともに反抗心が生まれて、同じことの繰り返しになる、ということです。

生まれ着いての極悪人でないのなら、他人に対して恩があるので頭が上がらなくなる、ということはありますね。一宿一飯の恩といいますし、ちょっとした厚意であっても他人から恩を受けると、あからさまに悪意のある対応は出来ません。

どんなに偉い人でも自分の親が毒親でなく、自分を真っ当に育ててくれたなら、感謝しているでしょう。自分が一国の宰相で、親が単なるしなびた老人であっても、親の為にどんなことをしてやろうと思うのは当たり前です。

だから、「情けは人の為にあらず」と言いますが、自分に大きな負担にならないことなら、他人には代償の恩を売っておくことがいいし、それが何かしらの形で返ってくるってことですね。これが人間関係の根底にあるものだと思います。

まとめ

一般社会でも似たような心理戦が行われているわけです。多くの人が「見た目」で人を判断します。身に着けているもの、容姿もそうですが、筋力、大きさはやはり気になると思います。ゴリマッチョにつまらないことで絡む人はいないでしょうから、身体を鍛えると抑止力になります。

次に実績があると、相手が納得するので、大きな仕事をしようと思ったら、若いことに実績をつけるのが必須です。だから、歴史上の偉人は若い頃に一か八か、乾坤一擲の大勝負に出ていることが多いです。そこから先は相手が実績にひるんでくるの交渉が有利になります。

戦国大名がともかく上洛を急ぐのは既成事実を作ってしまえば、圧倒的有利に他の戦国大名に圧迫できるからで、京都を占拠して維持できなければ意味ないですが、維持さえ出来ていれば、大きな実績になります。

武力でどうもならない相手は感情で篭絡させるしかないです。大げさなくらい気を使ってやり、飲み食いさせて、楽しませてやれば、多く人間は恩に着ます。(サイコパスは恩を感じませんが、白鳥さんはサイコパスではなかったわけです。)ちょっとした昼飯くらいであっても、身銭切っておごってくれた人のことはいつまでも覚えていませんか?私は覚えていますね。

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みみず
7 years ago

不従順だったのは、看守に立てついても命の心配がないからでは(食事、生存権が保証されてる)と
思いましたがどうでしょうか。

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774
7 years ago

記事を書いていただきありがとうございます。
「怪物白鳥に立ち向かう一般人たちという物語」
私も同じ感想でした。こんな超人相手にさせられる一般人はたまったもんではないです。
白鳥は強靭な肉体に鋼のメンタルですしね。

吉村昭さんの小説は他に、大黒屋光太夫や、江戸時代に鳥島に流れ着いた長平という人物を題材にしたものがあります。
これらもすごく魅力的です。吉村さんは漂流記が大好きなようです。
吉村さんは、大黒屋光太夫や長平と同じように、白鳥も一種の漂流者とみて魅力に取りつかれたのかもしれません。

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