さて、リクエストに応えて、豊臣秀吉について書きます。
日本史の中で最も成り上がった人は豊臣秀吉である、と言うことは議論の余地がないと思います。やすがの矢沢永吉さんも豊臣秀吉より成り上がったとは言わないと思いますね。
初期
いろんな伝承があり、実際のことはよくわかりませんが、豊臣秀吉は愛知県名古屋市、今の名古屋駅の裏側にある中村で生まれ育ったことは間違いないようです。ここは今でも良くも悪くも開発のあまり進まない場所なので、当時は本当に農村だったのでしょう。今は豊国神社という豊臣秀吉を祀る神社があります。
父親が何をしていたのかは諸説ありますが、丸っきりの農民ではなく、足軽として合戦が始まると参加していて、その際の怪我が元で、帰農したのではないか?と思います。侍として出世したわけでもなく、傷のせいで農民としても有能ではなく、色んな屈折する気持ちはあったでしょう。それが秀吉に影響したかもしれませんね。
実父は早世し、継父が来るのですが、この人も茶坊主だったみたいで、丸っきりの農民でもありません。秀吉に辛く当たったのかはわかりませんが、そこそこ成長してからの継父と上手くいくケースは少なく、実家は居心地が良かったわけではないでしょう。
そう言うわけで、早い段階から諸国放浪に出かけて行商人をして世間知を得たのだろうと思います。秀吉が武将として異色の実務的経済感覚を持ち、他人の心の機敏を鋭く感知するのは若い時の経験だろうと思います。
ちなみにユダヤ人の若者は行商しながら諸国放浪する人が珍しくないですが、これは極めて有益だからでしょう。お金がどう言う風に回り、人はお金に群がる、お金がないと人権を踏みにじられる、と言った感覚は実際に経験しないとわかりません。経済学者、評論家の先生方がトンチンカンなことを言うのは実務経験がないからでしょう。
放浪の後、今川家の陪臣、松下家に仕えて、そこそこ評価されたようですが、将来性を見限って辞めます。主人が陪臣では出世してもしれてますし、今川家は名門なので出自もよくわからない秀吉が頭角を現すことも無理だと悟ったのではないか?と思います。
言わば、現代社会の中卒フリーターが大企業孫会社に勤めて、そこそこ評価されても、その先は知れたもので、そこで叩き上げ部長くらいになっても、年収一千万円貰えないしがないサラリーマンが最良の結果であるなら、さっさと他の道を考えた方がいいと思ったんでしょう。
中期
そして、秀吉は故郷の尾張に織田信長という若殿が織田弾正忠家を継承、大きく台頭してきているのを知ったようです。この人は気性は激しいが、合理的な考えをしていて、伸びるかも知れない?と思ったんでしょうね。
小者、という立場からスタートしてますが、これは雑用のバイトみたいなものかな?と思います。言わば、伸び盛りの新興企業を継承した二代目社長の会社で雑用バイトとして勤務するようになり、持ち前のコミュ力で信長に近づき、仕事を増やし、面倒な案件をやり遂げて出世していきます。
織田家は実力主義ですが、信長が興した家ではないので、やはり古参は多くいて、卑賤の出自を持つ秀吉は嫌な思いをすることは多かったでしょう。明智光秀は滅亡したとはいえ、源氏傍流出身ですし、滝川一益も詳細不明ですが土豪出身でそこまで卑賤でもありません。
織田家の成長と共に出世重ね、長浜に自分の城を持つまでになると、本社の部長、子会社社長みたいな立場になり、この辺から子飼いを多く育てていきます。織田家内での自分の派閥形成をして、更なる飛躍を狙うわけです。
最終的には中国方面軍団長までに出世するわけですが、これはいくつかの子会社を抱える事業部長クラスの重役であり、本社の取締役まで上り詰めます。そんな折にクーデターで信長が横死した為、急遽陣をまとめて大返しに行くわけです。
後期
信長の横死から秀吉は更なる飛躍をし、キレキレ、即断即決でガンガン進めて行くようになります。信長という重石が取れて自由自在に勘の良さを発揮していったのでしょうね。
なぜ、本能寺の変を明智光秀が決断したのか?は諸説ありますが、他の人間が裏幕にいる陰謀説ではなく、単にあり得ないチャンスが転がっていた為に魔が差したんだろうと思います。そうでないなら、あまりにも準備不足です。
光秀にとって想定外は秀吉があまりにも早く畿内に引き返してきたことと、身内である細川、筒井が同調せず、孤立してしまったことでしょう。秀吉が毛利との対峙で立ち尽くして、細川、筒井の畿内勢が協力すれば、そう簡単に打ち破れなかったはずです。
光秀の撃破、清洲会議の論戦勝利をすれば、天下はほぼ手中に収めたことになり、地方大名を徐々に崩していき、信長の成し得なかった天下統一を果たします。キレキレはここまでで、晩年は耄碌したとしか思えない展開が待っています。
晩年
秀吉の朝鮮出兵は突発的に行ったりわけではなく、前から意識していたようで、李氏朝鮮へ服従を求める使者を出しています。当然、海を隔てた外国にそんなことを言っても黙殺されるのは当たり前ですが、島津家に対する恫喝と同様のことを行なっています。
李氏朝鮮との交渉を引き受けた小西行長はムチャブリを嘘とごまかしで受け流していましたが、秀吉の出兵が本気だとわかると、渋々、先鋒を引き受けることで、自分の責任を有耶無耶にしました。
諸国大名もイヤイヤついて行くものの、李氏朝鮮は腐りきっており、ろくに戦いもせず、あっという間に明との国境まで攻め上がります。あとはお決まりパターンの兵站を確保してない戦線の拡大となり、反撃食らって撤退となります。
それで諦めることなく、第二陣も派遣しますが、これも同じような展開で、きちんと調査もしてない、準備もしてないから厭戦気分が蔓延して、秀吉が亡くなって、すぐに止めているので、身内すら嫌で仕方ない出兵だったんですよね。これも家康が求心力を持つ理由の一つになってます。
もし、本気でやるなら、李氏朝鮮と正式に外交関係を結んだあと、内部情報をきちんと把握、なにかしらの内紛に乗じて駐屯軍を派遣して南の釜山を占領して任那の復活として日本の植民地とする。通商によって李氏朝鮮の財源を奪っていき、乗っとるのがいいでしょうが、秀吉は明を相手にするつもりで、李氏朝鮮なんて相手にもしてなかったんですよね。
もう一つの内紛が後継者問題ですが、秀吉には晩年まで実子がなく、親戚の子供、有力大名からの人質などを養子という形で取り込んで、それぞれに競争させていました。最終的には甥の秀次を後継者指名するのですが、その後に実子が生まれてしまったため混乱になりました。
秀吉も人の子で、老いて初めて手にした実子が可愛くて仕方ないんですよ。一般人でも四十過ぎてようやく得た子供は散々甘やかすし、なんでもしてやりたくなるものです。それで、原理原則を無視して秀次を追い込み、自殺させ、家康に付け込まれることになります。
まとめ
秀吉は尾張侍は商人のようだ、というのを体現した人で、極めて利に聡く、人誑しで、本質を見極めるのが上手な人でした。もし、秀頼がもっと早く生まれており、秀吉が天下統一する頃には元服するくらいの年齢になっていれば、豊臣統治がしばらく続いたかもしれません。
大阪商人が日本人気質のベースになったなら、中国南部人みたいな国民性になっていただろうと思います。今でも関西人は細かいことは気にしませんし、その場が楽しければいいし、自分が損しない限りは寛容です。中国南方文化を色濃く持つシンガポール人もそんな感じですね。
大阪商人は世界初の先物市場を設立するくらい先進的なので、江戸、大阪の二強体制にらならず、大阪一強が長く続いていたら、日本人は上海人みたいになっていただろうと思います。ちなみに中国人の中でも特に上海人は腹が立つくらい商売上手です。
実際は家康の三河根性が現代日本人のベースになった為、良くも悪くも日本人は律儀ですし、折り目正しく、序列主義なんでしょう。数百年あると、国民性も全然違うものになる、逆に言うと国民性が変わるのに数百年かかるので、日本人は未だに三河的ですね。
記事ありがとうございました。
信長と家康があるので秀吉もノリで追加しました。
よく言われることですが家康を生かしたのはまずかったと言われますが、秀頼じゃ長続きしませんね。
いつもありがとうございます。
小牧長久手の戦いで勝利を収められなかったので、家康の首を取ることは無理になってしまいました。秀次が家康を破る大金星をあげていれば、豊臣政権は続いたでしょう。
シン
確かに、小牧長久手で家康を倒せなかったのと頭を下げてきた家康を処刑したら大義名分がないですね。
たまに、明の朱元璋と比べる人がいますが秀吉が粛清しまくったら治められないですね。
裏で糸引いて、小牧長久手の戦いを政治決着させたのは誰の目にも明らかで、家康も譲歩をしてます。その家康を大した理由もなく粛清すれば、他の外様が黙っていないので、政権存続が困難になります。やるなら、次世代に変わってから、難癖つけて取り潰すことくらいで、秀吉の時代では無理だったでしょう。
シン
シンさん、
あまり秀吉は戦上手な武将ではないですね。
ゲームや大河ドラマでも物量で押しきる策や兵糧攻めのような戦なので真田昌之や島津義弘のような強さではないですね。
小田原攻めや九州、四国征伐も物量で毛利氏とは工作活動ですし。
一般的に言って、都会の兵は弱い、田舎の兵は強いです。これは第二次世界大戦当時ですら、関東、関西、東海兵は弱いと言われており、東北、九州兵が強いと言われてました。
戦国時代も尾張侍は弱いことで知られていて、だから、兵農分離を取って傭兵化したんですね。秀吉は兵隊そのものを鍛えることは無駄だと思って、物量戦、持久戦で押し切ることを得意としてます。
同じ愛知県でも三河侍は強いことで知られていて、家康への忠誠と獰猛で執拗に戦うため、家康は野外戦が得意です。滅亡した武田勢を組み入れたりして、兵そのものを鍛えようともしてますね。
この辺が秀吉と家康の違いですね。
シン
>日本史の中で最も成り上がった人は豊臣秀吉である、と言うことは議論の余地がないと思います。
→ 秀吉の次に成り上がった人は田中角栄である、ということも議論の余地がないでしょうね。
両者とも成り上がる過程は物凄いですが、トップになってからの実績が今一つである、ということも似ています。
確かにそうですね。トップ立つまではキレキレなのにトップに立ってからは今ひとつです。田中角栄が今太閤と呼ばれて、そんなところまで似ているとは不思議ですね。
シン
一方、徳川吉宗なんかはトップになる過程は決して褒められた物でもないのに、将軍になってからは顕著な実績をあげています。
現代の首相でいうと海部総理、小渕総理あたりがそんな感じでしょうか。
トップに向かって上る才能と、トップになってからの才能は別物なのかも知れません。
両方を兼ね備えた人間は、日本史上の為政者では徳川家康くらいではないでしょうか。
三英傑(信長・秀吉・家康)の中では、今、秀吉が一番人気が無いそうです。
おそらく、凄い立身出世をしたが、その後が上手くいかず、
耄碌して老害を撒き散らし、次世代にツケを残しまくったことが原因でしょう。
秀吉=団塊世代という感じがします。
実際、天下を統一した後の秀吉は老害そのものですからね。
・朝鮮出兵
…過去の成功体験に捉われ、自身の全盛期との情勢の違いを
理解せずにゴリ押しで無謀な拡大政策を行った。
・淀殿寵愛
…若い愛人(側室=愛人では必ずしもないにせよ)にのめり込み、
恣意的な人事を行い、能力のない愛人の側近(大野治長など)を取り立て、
現場を混乱させた。その結果が大坂の陣での豊臣家首脳の無様な指揮ぶり。
・秀次一族虐殺
…正式に後継者に据え、順調に政権移譲が進んでいた跡取りを、
確実に幼い実子に後を継がせたい、という被害妄想にも近い執念から、
本人・妻子・関係のある家臣を皆殺しにし、多数の人材を失った。
凄まじい老害です。
公私混同をして会社を食い物にする叩き上げの無能な役員、
好き放題やって会社を傾かせている自覚のないワンマン社長、
時代遅れの根性論を振りかざす監督や教師、
古い学説を頑なに改めない老いた教授、
そんな「プチ秀吉」が、現代の日本社会には溢れていると思います。
いつきさんの言われる程度の秀吉の悪行は、どんな為政者もやってますよ。
中国の皇帝なんか、天下統一した後は粛清の嵐ですし、外征も盛んに行うのが普通ですから、秀吉とは比べ物になりません。
秀吉が残した功績は、
・太閤検地
・刀狩
・日本人奴隷が海外に売られるのを禁止
・西洋からの侵略の食い止め
割と多いと思いますけど。
私は,三英傑の中で一番秀吉好きです.
はじめは,晩年の朝鮮出兵などの耄碌ぶりを学んで,好きではなかったのですが,
スペイン侵攻と絡んだ朝鮮出兵の本当の理由などを知って,先を見通した読みに感嘆します.
家康も信長も,欧米列国の侵攻に対して,それぞれキリシタンの戦略的利用や迫害などで対処していますが,
残念ながら,日本史を世界史と同時に学びませんし,しかも勝者によって作られた歴史を真実であるかのように
教えるため,その目的を理解されることが少ないです.
しかも,戦前の教科書にある秀吉礼賛,戦後における朝鮮半島に配慮した反秀吉観が,
さらに事実を分かりにくくさせています.
秀吉の朝鮮出兵がスペインのアジア侵略に対する自衛戦争だった、
というのは、最近よくネトウヨ界で言われている説ですね。
スペインが明を征服してしまうと、日本にとって脅威となる、
朝鮮を橋頭堡にして日本に攻めてくる危険がある、
なので先手を打って朝鮮・明を支配し日本を守ろうとした、と。
これは完全な後世の地政学から見た牽強付会です。理由は以下の通りです。
1.当時のスペイン軍の能力
欧米列強がアジアの国々を征服するようになるのは、
産業革命を経た19世紀半ば以降です。
16世紀の時点では、航海術以外では、
ヨーロッパとアジアの技術水準に大差はありません。
地球の裏側から帆船でやって来て、
一国を征服するほどの力は、まだヨーロッパにはありませんでした。
確かにスペインは南米のマヤ王国・アステカ王国・インカ帝国・
フィリピン・マリアナ諸島等を征服しています。
しかし、それらはいずれも、対外戦争の経験が乏しく軍事力がないか、
そもそも部族社会のレベルまでしか発展していない地域ばかりです。
実際、台湾ではオランダ軍が明の残党に敗れて撤退しています。
当時のアジアにおけるスペイン軍の能力は、
せいぜい港湾を拠点として占拠し、そこを拠点に
不当な貿易で富を得る程度でした。
とても明や日本を征服する力はありません。
2.秀吉の目的
秀吉は「唐・天竺まで攻める」などと誇大妄想としか
言いようのない事を言って朝鮮に攻め入っています。
スペインを牽制するといった、明確な目的が全く存在していません。
第一、アジアでのスペインの拠点であるフィリピンに対し、
秀吉は何一つ攻撃の計画をしていません。
秀吉にとって、スペインは厄介な連中を送り込んで来る面倒な国、
といった程度の認識で、軍事的脅威など感じていなかったようです。
結局、朝鮮出兵の目的として見えてくるのは、
とにかく手近な陸地を攻め取りたい、という単純な領土的野心のみです。
さらに言うなら、朝鮮や明を征服するにしても、戦略があまりにも稚拙です。
当時の朝鮮は
・李王朝は腐敗し、軍隊が有効に機能していない。
・腐敗した李王朝に対し、民衆の不満が溜まっている。
・朝鮮の宗主国である明も、暗君・万暦帝の下で衰退している。
と征服しやすい状況にありました。
戦況も
・開戦から半月で首都・漢城を占領。
・李王家の王子2人を捕虜にする。
・圧政に苦しんでいた朝鮮の民衆から解放軍として迎え入れられる。
・朝鮮全土を占領。
と極めて有利でした。
にも拘らず、秀吉は、
・捕虜の王子を傀儡として擁立する、など策を講じていない。
・解放軍として迎えてくれた朝鮮に民衆に対して略奪を行い、支持を失う。
・民衆の義兵闘争によって、兵站を枯渇させる。
・満洲にまで攻め入り、女真族を敵に回す。
・明との講和を破談させる。
等々、どうしようもなく稚拙に戦争を進めています。
日露戦争で朝鮮半島がロシアの橋頭堡として危険視されたことと、
嫌韓の感情から、秀吉の朝鮮出兵を擁護しようとする右翼がいますが、
当時の情勢での朝鮮への侵攻には、差し迫った理由が全く見当たらず、
また戦い方も、単純に攻めるばかりで幼稚そのものです。
結局、秀吉の朝鮮出兵は、「自身の成功体験に溺れた老権力者の愚行」
としか評価のしようがありません。
国内の外様大名の力を削ぐために明に出兵したという説がありますが、朝鮮出兵で豊臣政権の没落を早めてしまいましたよね。
あまり、真剣にやらなかった家康が有利になっただけなので。
私もかなり無理のあるとんでも理論だと思ってます。先兵であるイエズス会は明ですら、大きな影響力を持っていたとは言えず、まして、イスパニアが直接支配するまでのことはありえません。秀吉がイスパニアとの抗争を見据えた侵攻したとはとても言えません。
日露戦争でのロシア南下は差し迫っており、朝鮮半島を制圧されたら、とても国防が維持できないというのはわかりますが、それと秀吉の朝鮮出兵を結びつけるのは無理があります。
シン