じゃあ、明智光秀

謎多き男、明智光秀についてのリクエストがありましたので、書きたいと思います。

育ち

産まれは岐阜県、美濃東部、明智と言われ、源氏の名門、土岐氏庶流、明智氏の家に生まれたようです。割と早い段階で実家が滅んでいるので、史料が少なくハッキリしたことはわかりません。斎藤道三の国取り物語、親子内紛の動乱で滅亡したようですが、明智氏の滅亡は大きな事件とは見做されず、よくわかりません。

後にライバルとなる豊臣秀吉のように氏素性がまったくない土民というわけではないですが、有力な武家に生まれたわけではなく、青年期には実家は滅んでしまって、放浪に出ることになったようです。その謎の放浪の旅で色んなことを学んだらしく、かなりの知識人です。

明智光秀は文武両道の名将で、外交、書学、短歌、茶道などをキチンとこなせますし、合戦の指揮を執っても巧者であり、特に当時の最新兵器だった鉄砲に造詣が深くて、自らも高い射撃技術を持っていたようなので、どこでどう学んだのか?はわかっていません。これがわかったら、明智光秀の人物像がかなり判明すると思います。

現代風に言うと、割と裕福な実家に産まれたのに、実家の商売が行き詰まって破産して、働きながら大学に通って、フリーターしながら、色んな技術を身につけ、自在に英語も話せるし、ゴルフも巧い、接待上手で、プレゼンは目を惹くくらい上手く、交渉は確実で丁寧、プログラミングもお手の物、簡単な設備は自分で直せる、というようなスーパーマンになってたわけです。

朝倉

何かしらの伝手を辿って、福井、朝倉氏に仕えていたようですが、その当時はさほどの地位ではなかったようで、何をしていたのか、ハッキリとわかっていません。足軽大将くらいの立場でしかなく、大手企業の係長くらいのショボい立場であり、朝倉氏で大きな存在感を持っていたわけではなさそうです。

彼の命運を変えるのは幕府の実権を三好氏に奪われた足利義昭が北陸に流れてきて、当初は縁者である若狭武田氏に居候していたみたいですが、何も進まないので隣の朝倉氏に接触してきて、明智光秀は何かしらの理由でその交渉役になります。

足利義昭、明智光秀の二人も何かしらの縁があったようです。兄の足利義輝に短期間仕えていたとか、ルイスフロイスは明智光秀が足利家家臣、細川藤孝の中間、パシリをしていた、と記述してますが、彼ら二人の後年の関係を見ると勘違いだろうと思います。かつてのパシリの娘を嫡男の正妻にはしないでしょう。

そして、明智光秀は上洛の意志がない朝倉義景を見限って、織田信長に接触をするのですが、彼の叔母が斎藤道三の側室をしており、織田信長の正妻である濃姫と従兄弟にあたる、そうではないにしろ、何かしらの縁があったと思われています。上洛の意志がある織田信長はこの話しを拾うことにして、明智光秀は両属になります。

言うならば、勤務先の客分を取引先に売り込んでいたら、取引先から気に入られ、取引先に常駐で行くことになり、本来の所属先でもさほど重要視されてなかったので、取引先の仕事をすることが黙認されて、どんどん所属が曖昧な立場になった、というパターンで、現代でもない話ではありません。

織田

織田信長が上洛する頃には朝倉氏との関係は切れて、織田家に仕えるようになり、ソツのない明智光秀は足利義昭との絡みから京都で朝廷関係の外交などに従事するようになり、その足利義昭が織田信長と関係決裂する頃には足利義昭と縁を切って、完全に織田信長の配下になります。

そして、滋賀、坂本を拠点にして近畿方面を攻める軍団長的立場になり、かつてはまったく立場が違った細川藤孝とも同僚のような立場になり、友誼を結んでいます。二人とも教養人なので気があったんだろうと思いますし、お互いに織田家の尾張、美濃勢の田舎臭さが好きではなかったんだと思います。

明智光秀は美濃出身ですが、その出仕経緯から、美濃勢と親しい関係ではなく、近畿勢と協調関係にありました。同じ美濃東部出身の可児才蔵だとか、西部の稲葉、森、安藤、と言った有力武将と親しくしていたわけではなく、むしろ、森蘭丸とは険悪な仲でしたしね。

現代風に言うなら、明智光秀は高校で上京しており、大学、就職上京組メインの東京の岐阜県人会なんかは田舎臭くて嫌いで、首都圏出身者のグループに所属している、と言う感じですかね?若くして上京した人って、あまり地元意識が薄かったりしますから、そういう感じでしょう。

謀反

明智光秀は織田家で順調に出世して、本体役員、子会社社長みたいになります。織田家は尾張の中小企業ではなくなり、全国区の大企業になり、事業も多角化し、子会社も増えて、その中の中核企業、地域を担当するようになったわけです。近畿地方一帯の平定ですから大仕事です。

そして、秀吉に与力して中国地方攻めが命じられるわけですが、これがなかなか面倒な人事です。現代風に言うと、給与、ポジションは上がるが、田舎に飛ばされて、ライバルの傘下に付くようなものであり、屈辱の人事だったのでしょう。

秀吉は近江、長浜は据え置きで姫路を与えられており、光秀は坂本、丹波は取り上げ、中国地方では刈り取り次第、という人事だった、と言う説もありますが、ここまで苛烈だったのかは疑問です。こんなのは辞めろと言わんばかりの人事であり、ここまでのことをする意味はないだろうと思います。

少なくとも、ライバルの傘下に入って中国地方に行くのは嫌だったのはあるでしょうし、嬉しい人事異動ではなかったはずです。と言って、何が彼を謀反に駆り立てたのか?はわかっておらず、後世の我々の想像を駆り立てます。色んな説はありますが、私は衝動だと思います。

明智光秀って、良識の人であり、苦労人で、学もあるし、体力もあり、努力家で、真面目な人です。吹かしまくって、人を巻き込み、のし上がっていく豊臣秀吉とは違って、本人が着実に仕事をし、親戚筋を中心とした家臣団がそれを支えてきました。明智家には明智秀満、斎藤利三くらいしら有名武将もいません。

そういう人に不意に沸き起こる、狂気ってあると思います。皆さんには全てを捨ててでも、上司を殴ってやりたい、と思う瞬間ってありませんか?次の瞬間にグッと堪えるんですけど、これで殴り倒せる、というネタが手元にあったら使いたくなりませんか?そういう衝動だと思います。

そうじゃなかったら、盟友の細川藤孝、筒井順慶にすら根回しをせず、謀反をするわけありません。彼らは速攻で豊臣秀吉につき、山崎の合戦はまともに勝負になってません。彼らの了解を事前にとっていたとはとても思えません。

まとめ

サイコパスの信長、コミュ力お化けの秀吉と比べると、明智光秀は一般人に近く、私はなんか共感できるところが多いです。のし上がるために色々勉強して、転職を繰り返して、ようやく自分の能力を評価してくれる殿様を見つけたんです。

その殿様はひどい暴言も吐くけど、待遇、権限はしっかり与えてくれたから頑張ってこれた。それをロクに勉強もせず、出来る部下を見つけてくるだけのチャラチャラしているライバルの傘下につけだと?とふざけるな!だということでしょう。

6+

投稿者: シン

思いついたことを記事にして、コメントをもらって、議論するのが楽しくてブログをやっています。

「じゃあ、明智光秀」への5件のフィードバック

  1. リクエストありがとうございました。
    今まで大河ドラマにならなかったのは資料がなかったのかなと思います。
    面白く読めました。

    内政も立派で、いい領主だったそうですね。

    まとめに書いてあるなんだかいろいろ我慢していて、最後に上司を殴りたいって気持ちで本能寺の変って凄いわかる気がしました。勤め人ならこんな会社辞めてやるって感じですが、光秀くらい優秀な人だから思うところあったのでしょう。
    ゲームや本の知識のレベルですが、それまでに石山合戦の虐殺やいろいろ嫌な仕事を信長のためにと思ってやっていたけど悩んだ末に穏やかな人がキレたって感覚なんでしょうね。

    0

    1. いつもありがとうございます。

      中年になるまで何をしていた人なのかわからず、大河ドラマはどう描くのか興味があります。真面目な人で領民にも慕われていたそうなので、信長のサイコパスぶりにずっと思い悩んでいて切れてしまったという感じなのかな?と思います。サラリーマンでも割とある話だと思います。

      シン

      0

  2. シンさん
    光秀は、紳士で真面目な人なイメージがあります。
    昔、見た番組では本能寺の変がなければ良くも悪くも外国の干渉を受けていただろうと言われてましたね。
    スペインやポルトガルの植民地になってた可能性があるとも言われてます。

    0

  3. 光秀が信長を殺した動機について、
    シンさんの言う「衝動」はまさにその通りだと思います。
    私はここでもう一歩踏み込んだ考察を紹介したいと思います。
    それは光秀が信長殺しを決断した時期についてです。
    光秀は本能寺を取り囲んだ、正にその瞬間に信長殺しを決断した、という説です。

    1万3千人もの軍勢が武器を携えて京都の洛中を行軍すれば、
    火縄の火や、鎧や刀のぶつかる音が絶対に人目に付くはずで、
    いくら油断していたとはいえ、本能寺を完全に包囲されるまで
    信長とその宿直が全く気付かないのは不自然過ぎます。
    この点への答えとして、信長は元々当日の朝、
    本能寺で光秀の軍勢を閲兵する予定であった、とする見解があります。

    この時の光秀の中国出陣は、
    信長自らが毛利家との最終決戦に挑むための露払いであり、
    万全を期すために、信長は出陣前に閲兵を行おうとして、
    光秀を本能寺へ呼びつけました。

    命令通り、軍勢を率いて本能寺へ来た光秀は、周囲の状況が、
    自身は大軍を率いていて、間の前には無防備かつ無警戒な信長がいる、
    京の周辺には他にめぼしい軍団がいない、
    雑兵たちの間では、「武田家への盾としての利用価値がなくなった家康を、
    信長は始末しようとしている」と噂が流れていて、突然寺に押し入っても
    「信長の命で家康を殺す」と言えば不自然ではない、
    と、偶然にも信長を殺すのに格好の条件が揃っているのに気づきます。

    その瞬間、日頃の信長への不満・恨み・違和感、天下取りの野望、
    朝廷を滅ぼされかねない危機感、等々、日頃は理性で抑え込んでいたモノに
    一気に火が付き、衝動的に信長殺しを決断し、実行しました。

    どんな優秀な我慢強い人間でも、不意に沸いた狂気に衝き動かされて、
    とんでもない行動を起こしてしまうことはあります。

    秀才・光秀の一瞬の衝動が、天才・信長を死に至らしめ、
    日本のみならず、世界の歴史をも変えてしまった、
    本能寺の変の動機の真相が、シンさんや私の考えた通りであったなら、
    歴史とは何と理不尽で不確定なものか、と嘆息せずにはいられません。
    しかし同時に、歴史は感情を持った人間が作り上げるもので、
    決して必然の積み重ねではない、という事実を実感させてくれます。

    7+

    1. その説は見たことがあり、私もそうだと思います。その時の激しい衝動で突き進んだだけで、長く考えて決断したことではないのではないか?と思います。そういう「衝動」が世の中を変えることは少なくありませんね。

      シン

      0

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