織田信長人気は凄まじいものがあり、ドラマ、漫画、ゲームと日本のサブカルチャーの一翼を担う存在になっています。海外輸出すらしていて、アジア圏ではそこそこ知られた存在になりつつあります。今回の記事では信長が尾張という生国から、どんな影響を受けたのか?を考察したいと思います。
農業
戦国時代の農業技術だと、農地にできる土地は限定的で、米作ができる土地はプレミアと言っても構いませんでした。尾張でも、知多半島は不毛の土地として知られ、漁業でしか生計を立てられんでしたし、隣の三河も広いけど、農地に適してはいませんので、メインは濃尾平野です。
日本は山国なので、平野は貴重です。尾張には濃尾平野があり、きわめて豊かな土地でした。今では名古屋が工業都市になってしまったので、農業のイメージはありませんが、戦国時代では尾張は農作物が多く、面積の割に石高は多く、上国に分類されていたのです。
当時は現代のような灌漑技術がないので、自然を利用した水の引き込みをしていて、尾張では木曽三川からの支流、その又支流なんかを利用して、水田を作り、そこで米を作っていたのだろうと思います。だから、米、という作物を日本人は特別視するのかもしれません。
商業
尾張は商業も盛んで、海運で栄えていました。戦国時代は今の尾張地方よりも内側にえぐれていて、熱田、津島は神宮であると共に海運都市でもあり、各地の名産品が運び込まれ、参拝客が買っていったのです。
人と物が流れれば、そのにお金が落ち、そのお金で人は動く、という経済の基本を信長は幼い頃から理解していたのでしょう。父親の信秀が財力にもの言わせ、朝廷、幕府に献金して、政治利用してますからね。信長の経済力を使った政治力の行使は父親の影響もかなり大きいと思います。
信長は上洛して、まずは商業地の占拠、支配体制の確立から始めてます。堺なんかが典型的ですが、これは彼の故郷がそういう風土だからであり、現代社会では当然ですけど、彼の時代としてはかなり新しい考えです。
中世型の君主だと、まずは土地の占拠、その土地を部下に分け与えることから始めて、商業地に価値をさほど見出さず、お金より、土地にこだわります。信長はお金、次に茶器を褒賞として見出し、土地がなくとも、手柄に報いる方法を編み出しています。経済感覚がその当時としてはずば抜けて優れた人だったのです。
軍事
尾張侍は商人のようだ、と言われていたようで、中世の御恩と奉公的な考えはなく、メリットの多い方に着く、という考え方で徹底していたそうなので、信長は早くからプロ軍人、傭兵化を勧めています。
中世のスタイルだと、国人がいて、その盟主がいて、各人が土地を持ち、その土地の住民が農地を耕し、戦争になれば、武器を取り、戦地に出かける、というものでした。武田家なんかは典型的です。
その為、長期遠征すると、本国の農地は荒れるし、里心がついて士気が下がります。その代わり、国人への個人的感情があり、土地への愛着から真剣に戦うわけです。戦況が悪いので、逃げる、と言うことはできません。
武田信玄が長期遠征出来ず、小競り合いを繰り返していたのに対し、織田信長が長期遠征を繰り返し、とどめを刺すまで戦ったのはこの事情にあり、傭兵は給金で働いているので、特別手当のつく長期遠征はむしろ有り難いのです。
まとめ
信長が育った風土を少し考察しましたが、当時としてはかなり先進的な土地で育ち、父親も先進的で、彼が独創的な人間であったのもありますが、育ちの影響は大きいと思います。後を継いで天下統一した豊臣秀吉も商業的ですし、尾張という土地柄でしょう。
それに対して、徳川家康は農耕的で、日本の経済を米単位にしてしまった為、江戸時代の経済は米を中心に回っています。信長もしくは秀吉のやり方が日本に馴染んでいたら、現代の日本人の気質も変わっていたでしょう。
三英傑は全員が本拠地である愛知県を捨てていますけど、その影響は色ごく受けており、信長、秀吉は尾張的ですし、家康は三河的です。三河的家康には中央である近畿から本拠地を離したほうがメリットがあると思ったので、関東平野を持つ江戸に幕府を設定したのでしょう。
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信長が残虐と言われるのは納得できません。
残酷な刑などは、当時としては普通ですし、比叡山焼き討ちもしてますが、僧兵はれっきとした武装勢力ですから。
僧に手を出すとバチが当たるなどという弱者の考えに囚われていないだけで。
信長は、科学が発展していない当時でも、死後の世界や神や仏、霊のたぐいを一切信じない人間で、地頭がいいんだと思います。
また、裏切られた事はあっても、自分から裏切った事はなく、上京するときも一銭でも盗んだ兵は斬る、と宣言したため京都の治安は良かったようです。
人間五十年という人生哲学もかっこよくて好きです。
合理主義者なので、理不尽ではなかったと思います。やったことには筋が通っていて、明らかに無理無駄はありませんね。
シン
地方から出てきた会社の人と話したのですが、尾張はまだ遊ぶところがあったりするのですが三河は働くとこがあるけど無機質な感じがするから嫌いと話していました。
私がこのブログで愚痴のように三河の魅力のなさを吐き捨てましたが、働きにくるだけと割りきっている人は私だけではなかったようです。
尾張は信長の時代から商業都市なので、さほど面白いわけでないにしろ、遊ぶところはありますか、三河はずっと何もない田舎であり、トヨタが尾張での拡張を諦め、三河に進出したくらいから、田舎に仕事が湧いてきて、それに人が集まったに過ぎないので、人工的で、娯楽性はないのでしょう。大きな企業城下町です。
シン
今は関東平野に暮らす純三河っ子としては、徳川を誇りに思いますが
今回のような考察は初めて見ました。
面白いです。
三河は本当に農耕文化で経済的に豊かになった現代でもあまり芸術面なんかは街並みも美しさ、お洒落さとは無縁ですね(笑)
ただ、農耕文化がモノ作り大国になる土壌となったとも思いますね。
この辺の高校生の進路選択は機電等の実学を選ぶ人が多いですね。
代々農家だった実家も「男なら国立工学部へ、女なら地元で有名な私学の英語の学科へ」という感じでした。
投資とかITとかの実態が目に見える物ではないものの話(お金がお金を産み出すとか)を家族に話しても興味すら持ってもらえませんね(笑)
まあ、田舎の年寄りあるあるかもしれませんが、中国に行くと年配の人でもガンガン投資したりスマホを使いこなして商売をしていたりカルチャーショックを受けますね。
先祖代々の田んぼの一部も某大企業に売ってしまって確かにお金は入ってきたのですが、もっと知識と人脈と交渉力があればうまい運用方法もあったのではないかと思います。
中国人の友人と話していると
信長があのまま天下を取っていたら日本人も中国人やインド人とも渡り合えるような民族になっていたんですかね~
まあ、それでも結果として、民に平和をもたらすことができたのは家康。
派手さがなく信長と比べてほとんど注目されないところがまた三河人らしい。
「男のロマン()」みたいなのがなくて
トヨタ車みたいな地味さ(笑)
だけど、最終的に生き残るのはいつの世も、家康みたいな人なのかな?と思ってます。
地元の話題だったのでついつい熱く語ってしまいました。
トヨタがEV時代に勝てるのか、テスラにやられるのかはわかりませんが、トヨタ的なやり方は長年続く、日本人の習性なので、これが通じないとなると、日本は苦しいです。
シン
信長はなぜ本能寺の変で殺されたのか、秀吉はなぜ朝鮮出兵したのか、が私にとってはこの時代一番の謎なんですが、歴史の授業ではこういうところを議論する機会があったら楽しかったように思います。
信長は鉄砲の導入も早かったそうですが、こういうテクノロジーに詳しく、経済感覚に優れた人が天下をとるのは、今の世も同じですね。
永遠の謎を議論したら、一晩使えます。
いつの世も最新の技術を使いこなして、経済感覚が優れて人が勝ち残るんですが、あまりにも先進的すぎると、保守層の反発くらって、漁夫の利で、保守層に理解示す第三者が美味しいところを持って行くのも定番です。
先進的なホリエモンが吠えて、グチャグチャになったところで、ホリエモンに持っていかれるくらいなら、理想的ではないけど、比較的保守層に受ける三木谷さんが近鉄を持って行く、とかいうパターンです。
シン